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原口要
日本の鉄道技術者、都市計画技術者 ウィキペディアから
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原口 要(はらぐち かなめ、嘉永4年5月25日[1](1851年6月24日) - 昭和2年(1927年)1月23日)は日本の鉄道技術者、都市計画技術者、実業家。詩人。龍水と号して漢詩をよくした。
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経歴
嘉永4年(1851年)[1]、肥前南高来郡西郷村に島原藩士進藤伊織の三男として生まれる。明治2年(1869年)同藩士原口謙介の養子となる[2]。上京し、安井息軒のもとで漢学を修め。明治3年(1870年)から大学南校、開成学校にまなぶ。明治8年(1875年)にレンセラー工科大学に留学し、卒業後はデラウエァア橋梁会社で橋梁工事を担当、その後ペンシルベニア鉄道会社に移り、鉄道建設を担当する。 明治13年(1880年)に帰国、東京府御用掛として、上下水道施設の整備改良、品川湾改修計画や鎧橋、吾妻橋設計などを担当する。明治16年(1883年)からは工部省鉄道局技師を兼務し、鉄道技術者として各地の鉄道建設にかかわる。退官後は民間企業の取締役や、清国や台湾で鉄道顧問をつとめる。
- 1870年(明治3年)藩主の選抜で大学南校に入学し英学を修め、のち開成学校にすすむ。
- 1975年(明治8年)文部省よりアメリカ留学を命ぜられ、レンセラー工科大学で学ぶ。
- 1878年(明治11年)同校卒業後、デラウエァア橋梁会社に入社し橋梁工事を担当、その後ペンシルベニア鉄道会社の技師となり、フィラデルフィア付近の鉄道工事を担当する。
- 1880年(明治13年)帰国し、東京府御用係となる。
- 1883年(明治16年)4月17日 工部省少技長に任じられ新橋鉄道局建築課長。東京府と兼務する。[3][4]
- 1884年(明治17年)
- 1885年(明治18年)1月23日 東京府市区改正審査委員に任命される(12月まで)。[6]
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)12月9日 設計した吾妻橋(台東区、隅田川)が開通する。[9]
- 1888年(明治21年)
- 1889年(明治22年)5月7日 工学博士の学位を授与される。日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、志田林三郎、長谷川芳之助がいる。[13]
- 1890年(明治23年)10月9日 神戸建築課長兼汽車課長となる。[14]
- 1891年(明治24年)6月20日 鉄道庁一等技師となる。[15]
- 1892年(明治25年)8月18日 震災予防調査会臨時委員に任命される。[16]
- 1893年(明治26年)11月10日 逓信省鉄道技師、鉄道局工務課長兼線路調査掛長を命ぜられる。[17][18]
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)3月13日 大本営附を命ぜられ臨時鉄道隊の設計および事業監督を行う。[22]
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 1901年(明治34年)6月13日 設立された博多湾鉄道の取締役となる。[31]
- 1904年(明治37年)5月16日 設立された帝国鉄道協会理事に就任する。[32]
- 1906年(明治39年)
- 1912年(明治45年)
- 1912年(大正元年)7月20日 富士製紙株式会社取締役に就任する。[38]
- 1920年(大正9年)6月23日 帝国鉄道協会副会長に就任する(大正10年10月まで)。[39]
- 1926年(大正15年)9月8日 神戸有馬電気鉄道監査役に就任する。
- 1927年(昭和2年)1月23日 病気のため自宅にて死去。27日青山斎場にて告別式、墓所は青山霊園。[40]
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栄典
- 位階
- 不明 - 従六位[41]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正六位[42]
- 1892年(明治25年)1月21日 - 従五位[43]
- 1894年(明治27年)10月11日 - 正五位[44]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従四位[45]
- 1927年(昭和2年)1月24日 - 正四位[46]
- 勲章・その他
脚注
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