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吉田名保美
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吉田 名保美(よしだ なおみ、1926年〈大正15年〉[1] - 1987年〈昭和62年〉8月3日[1])は、昭和後期に活動した実業家。吉田名保美事務所社長。本名は日下 好江(ひのした よしえ)[1]。夫は日下令光(演劇評論家)[2]。
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経歴
吉田の若い頃の経歴は不明な点が多いが、安倍寧(音楽評論家)によると石田一松(演歌師)が国会議員になった際に秘書をしており、その関係で芸能界に携わるようになったという[3]。
昭和30年代は有島一郎や南道郎のマネジメントをしており、大阪から東京に出てきた森光子も菊田一夫が吉田に預けたという[3]。
1966年(昭和41年)、東宝から森とともに独立し、吉田名保美事務所を設立[1][4]。
マネジャー時代に培った人脈と企画力を駆使し、さらに歌舞伎から商業演劇にまで幅広いアンテナを持ち、同事務所を一流の芸能プロダクションに育て上げた[1]。全盛期には森光子、黒柳徹子、佐久間良子、松原智恵子、和泉雅子、波乃久里子、沢田亜矢子、桃井かおり、平幹二朗、井上順[5]、大和田伸也[6]ら有名な俳優・女優を抱え、大物女性プロモーターとして業界では有名だった。特に森光子と黒柳徹子を超一流の芸能人に育てた功績は大きい。また、同事務所にこそ所属していないものの、竹下景子の後見人的存在でもあった[7][8]。
本多圭(芸能ジャーナリスト)は同事務所について「山口智子や天海祐希らが所属する「研音」以前に、“女優の宝庫”と称された、日本を代表する芸能事務所だった。」と述べている[9]。また、残間里江子は吉田について「吉田事務所を避けては日本でテレビドラマはつくれない、といわれるほど豊富な人材を抱える大きなマネージメントオフィスの社長だった。」と述べている[10]。
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没後
吉田名保美事務所は吉田亡き後は規模を縮小し、現在は黒柳徹子の個人事務所として存続している。
2014年(平成26年)5月9日に「フジテレビ開局55周年スペシャルドラマ」として放送された『森光子を生きた女〜日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった〜』では市川実和子が吉田を演じた。
2016年(平成28年)に黒柳と親交のある田川啓二(ビーズ刺繍デザイナー)が同事務所の社長に就いたが、2018年(平成30年)に信頼できる知人に社長の座を譲り、一般財団法人黒栁徹子記念財団(現在は公益財団法人)の代表理事に就任した[11]。現在でも田川は黒柳のマネジャー的存在として仕事先に同伴している[12]。
森光子との関係
森光子が岡本愛彦と結婚してから4年が経った1963年(昭和38年)春頃、岡本は東銀座の東急ホテル内の夜間まで経営している喫茶室で当時、森のマネジャーだった吉田に離婚を伝える手紙を託した。森からすれば話し合った上で面と向かって言われなかったことが辛さを倍にした[13]。
黒柳徹子との関係
1967年(昭和42年)、黒柳徹子はNHKから独立する際に森光子から誘われて吉田名保美事務所に所属し、多忙を極めたが、「一度、休んで、ゆっくり考えたりする時間が欲しいな。」と考えるようになった。そして、吉田に1、2年休みたい、と告げた。吉田はすぐに賛成し、随分先まで予定が入っていた仕事を整理して、黒柳は1971年(昭和46年)秋から1年間、ニューヨークに留学することとなった[4][14]。
吉田は黒柳のニューヨーク留学に際して「黒柳さん、あなたはね、あなたのままで純真な人でいて下さい。面倒なことや嫌なことは、全部私がやります。」と言い切った。収入よりも黒柳の人間的な成長を望んだ[15]。
大平和登(演劇評論家)は東宝の宣伝部にいてニューヨークに駐在していた頃、吉田に密かに頼まれて、ときどき黒柳の様子を見に西57丁目のアパートへ行った。食事もともにしたが、会う度に大平が感心するほど英語が上達していたという[16]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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