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松原智恵子

日本の女優 (1945-) ウィキペディアから

松原智恵子
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松原 智恵子(まつばら ちえこ、1945年1月6日 [1] - )は、日本女優タレント。所属事務所はグランパパプロダクション

概要 まつばら ちえこ 松原 智恵子, 生年月日 ...

岐阜県生まれ、愛知県名古屋市育ち[2]名古屋市立桜台高等学校から芸能活動が可能な菊華高等学校(現杉並学院高等学校)に転校し卒業[1]明治大学二部英米文学科出身[1]。身長157cm。血液型O型。特技は日本舞踊[注釈 1]乗馬

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人物

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『映画情報』1965年2月号(国際情報社)より
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明治乳業の「パイゲンC」の新聞広告(1967年)

実家は名古屋市南区銭湯を経営(現存)。戦時中、名古屋大空襲を避けるため、母親が疎開していた岐阜県で生まれ、戦後に実家のある名古屋に戻った[1]。4人兄姉の末っ子で三女。

1960年、高校生の時に日活が行った「ミス16歳コンテスト」に入賞し、副賞としての撮影所見学がきっかけで「夜の挑戦者」で端役デビュー[注釈 2][1]。 日活時代はアクション映画青春映画のヒロイン役を多く演じ、1969年『恋のつむじ風』で初の単独主演を果たした。1971年に日活の一般映画制作中断により日活を離れ、テレビドラマに主軸を移して活動。

吉永小百合和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれて人気を得る(1967年ブロマイド売り上げでは、吉永、藤純子(現・富司純子)、和泉、酒井和歌子内藤洋子らを抑えて女優部門のトップになったほどの人気ぶりであった)[1]。都会的で可憐な清純派スターとして、日活全盛期を代表する女優とされていた。

日活への入社が決まるや否や、父親が東京都調布市に一軒家を建ててくれたため、お手伝いさんと2人で住んでいたという。

16歳で軽自動車、18歳になると普通自動車免許を取得。結婚前はかなりのスピード狂で、高速道路で抜かれると「よくも!抜いたわね〜!(といった具合で)必ず抜き返していましたね」とコメントしている[3]

27歳で「女性自身」などに執筆するジャーナリストの黒木純一郎と結婚。新婚旅行ではアフリカ大陸に長期滞在。38歳で妊娠、39歳で長男を出産した[4][5]。長男は医師である。

代表作である『ある日わたしは』が48年ぶりにスカパー!にて再放送されることが読売新聞で報道された。

2016年12月、第1回ソチ国際映画祭で『ゆずの葉ゆれて』の演技が認められ、主演女優賞を受賞した[6]

2022年、女性自身のインタビューで50年連れ添った夫の黒木が2月16日に逝去したことを明らかにした[7]。同年12月26日放送の『徹子の部屋』ゲスト時に黒木が急逝した詳細を黒柳に話している。

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出演

映画

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いつでも夢を』(1963年)
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青春のお通り』(1965年)
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青春のお通り 愛して泣いて突っ走れ!』(1966年)
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続東京流れ者 海は真っ赤な恋の色』(1966年)

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS

フジテレビ

テレビ朝日

テレビ東京

舞台

テレビアニメ

バラエティ

ラジオ

CM

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楽曲

シングル

※ すべて日本コロムビア

  • 「泣いてもいいかしら」作詞:植田俤子、作曲:戸塚三博(1967年、SAS-959)
    • c/w ひとりで歩くのが好き
  • 「淋しいあの人」作詞・作曲:万里村ゆき子(1967年、SAS-998)
    • c/w ひとりの雨降り
  • 「心から愛した人」作詞:秋川由美、作曲:戸塚三博(1968年、SAS-1093)
    • c/w 私にだけ
  • 「ブルー・レディー」作詞:万里村ゆき子、作曲:櫻田誠一(1968年10月、SAS-1192)
    • c/w 痛い指輪
  • 「恋の眠り姫」作詞:吉岡治、作曲:櫻井順(1969年、SAS-1229)
    • c/w 夕陽の中のチコ

CDアルバム

  • 「コンプリート・シングル・コレクション」(2014年9月24日発売)

脚注

外部リンク

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