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哲多町蚊家
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哲多町蚊家(てったちょうこうのいえ)は岡山県新見市の町丁。かつては新砥村の役場が所在した[1]。
地理

旧阿哲郡哲多町の南部に位置し[2]、蚊家本村、田井原、青木、引谷、蚊家田の河内、中野などの集落を有する[3]。
河川
歴史
哲多郡大飯郷に属した[3]。1600年(慶長5年)から1617年(元和3年)までは哲多郡全域が直轄領であったが、同年に哲多郡が松山藩の池田氏の所領となった一部を除いて成羽藩の山崎氏の所領となり、1638年(寛永15年)まで続いた[6]。1642年(寛永19年)から1693年(元禄6年)にかけては再び哲多郡全域が松山藩所領となったことで水谷氏の所領となる[6]。その後1695年(元禄8年)から1711年(正徳元年)にかけての松山藩の安藤氏の所領を経て同年幕府領となり、明治に至った[6]。なお、もともとは上蚊家、下蚊家の二か村であったが元禄年間に合併し、蚊家村となった[3]。
明治に入ると深津県、小田県を経て岡山県の一部となる[7]。町村制実施に伴い1889年(明治22年)6月1日に蚊家村が近隣の大野村、田淵村と合併して新砥村の大字となると、蚊家に村役場が設置された[3][8]。1900年(明治33年)4月に哲多郡が阿賀郡の一部と合併したことで阿哲郡の一部となっている[3]。
1955年(昭和30年)4月1日の町村合併促進法施行時には新砥村が本郷村、万歳村と合併して哲多町の大字となる[3][8][9]。
2005年(平成17年)3月31日に哲多町が新見市、大佐町、神郷町、哲西町と合併したことで新見市の一部となり、現在の哲多町蚊家に改称する[10]。
地名の由来
通説としては由来不明となっている[3]。方言の研究を行っていた十河直樹は蚊家の語源について地勢からして「蚊」の元字は「高」ではないかと分析したうえで元々「高」であったところに縁起の良い字ではない「蚊」を充てたのは「蚊の多い家」であったからとするのが妥当としている[2]。別の説として蚊家の読みは元々は「かや」であり、当地に伽耶からの渡来人が定着したことに由来するものであるとする説がある[11][12]。
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風俗
天王八幡神社の性的信仰
この節には性的な表現や記述が含まれます。 |
蚊家の天王八幡神社は1921年(大正10年)10月に改称されるまでは疫隅神社と称しており、流行病の防止にご利益があるとされていた[13][14]。この神社の末社である風神社、木の山神社、稲荷神社合祀の祠には男根が供えられており陰部の病気を治す神として生殖器崇拝の対象であったが、1960年代には既に廃れていた[14]。
この神社で旧暦7月23日に行われた盆踊りでは性的信仰が存在していた[14]。性病に罹った女性はここで男と性交渉を行うとなおると言われていたため背の帯の間に柴を挿して踊り、それを見た男が木陰に連れ込んで性行為を行った[14]。そのため性病に感染するものも出た[14]。一方で女を知らない男は天王さんの踊りに行けばよいと呼ばれており、若い男女は遠近を問わずこぞって踊りに出かけ、この踊りをきっかけに駆け落ちした男女も居たという[14]。この風習は1920年から1930年頃まで存在したが、1960年代には既に踊りは寂れてそのような慣習はなくなっていた[14]。
粥占
旧正月14日、鏡餅を入れた粥を炊く[15]。その汁に浸した茅の穂に、籾殻をまぶして一番よく籾殻のついた品種がその年豊作になると言われていた[15]。粥占の一種であり当地の方言ではこれを「タメシボ」という[15]。東京女子大学史学科郷土調査団が1970年(昭和45年)に哲西町生木(現在の哲西町大野部生木)で行った調査では生木の集落で1軒やっている家があったほかに、蚊家出身の女性の実家でも行っていたという[15]。
世帯数と人口
2025年(令和7年)9月30日時点の世帯数と人口は以下のとおりである[16]。
交通
教育
4301番地に新見市立新砥小学校が所在する[17]。同校が2001年(平成13年)に新設合併される以前は哲多町立蚊家小学校が存在した[18]。同校は蚊家小学校時代からへき地等級1級に定められていた[19][20]。
中学校は旧哲多町域を通学区域とする新見市立哲多中学校の通学区域である[21]。
施設
天然記念物
脚注
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