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大塚弥寿男

日本のプロ野球選手 (1943-2008) ウィキペディアから

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大塚 弥寿男(おおつか やすお、1943年9月8日 - 2008年11月14日)は、大阪府大阪市福島区出身のプロ野球選手捕手)。右投右打。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

浪商高時代には3度甲子園に出場。1960年、2年生の時に、1年生エース尾崎行雄とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。2回戦で法政二高柴田勲投手に完封負け。翌1961年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝でまたも法政二高に敗れる。夏の選手権は準決勝で、三度目の対決となる法政二高を延長11回の熱戦の末、2-4で破り決勝に進出。決勝では桐蔭高に1-0で降し優勝。高校同期に大熊忠義三塁手住友平二塁手、2学年下に高田繁外野手がいた。

卒業後は早稲田大学へ進学。高校、大学いずれも主将を務める。東京六大学野球リーグでは在学中2度優勝。1964年全日本大学野球選手権大会では、決勝で駒大に敗れ準優勝。宮本洋二郎江尻亮八木沢荘六らとバッテリーを組み活躍。リーグ通算87試合出場、328打数80安打、打率.244、0本塁打、25打点。ベストナイン3回。1965年第6回アジア野球選手権大会日本代表。

1965年プロ野球ドラフト会議東京オリオンズへ1位指名で入団。1年目から一軍の試合に出場し、2年目の1967年には醍醐猛夫と併用され、37試合に先発マスクを被る。1967年7月30日阪急ブレーブス戦では、高校の同級生である住友平に日本プロ野球史上唯一(2017年シーズン終了時)の「無補殺三重殺」(1人でのトリプルプレー)を記録された時の打者であった。翌1968年にはには自己最多となる71試合に出場(うち34試合に先発)した。1970年読売ジャイアンツとの日本シリーズでも第3戦で途中出場するが、2打数無安打に終わる。しかし打撃面での低迷もあって醍醐の壁は破れず、1972年引退した。引退後は夫人の実家の経営する会社に就職した。

2008年11月14日胃癌のため死去[1]65歳没

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

年度別守備成績

さらに見る 年度, 試合数 ...

※1969年以降

背番号

  • 26(1966年 - 1972年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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