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小坂敏彦

日本のプロ野球選手 (1947-) ウィキペディアから

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小坂 敏彦(こさか としひこ、1947年9月17日 - )は、香川県木田郡牟礼町出身で[1]、読売ジャイアンツと日拓ホームフライヤーズ(日本ハムファイターズ)に所属したプロ野球選手投手)である。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

小学5年の時に野球を始め、中学から投手となる[1]高松商業高校では、3年次の1965年にエースとして春夏連続で甲子園に出場した。春の選抜大会では、2回戦で米子東高校打線を完封すると、次の準々決勝でもPL学園打線も2点に抑え快勝。準決勝で藤田平らがいた市和歌山商業高校に1-3で敗れたが、ベスト4入りを果たす。同年の夏の甲子園では優勝候補に挙げられたが、1回戦で三池工業高校上田卓三との延長13回に及ぶ投げ合いの末、1-2xとサヨナラ負けを喫した[2]。三池工業はその後勝ち進み、「初出場初優勝」という快挙を成し遂げている。

高校卒業後は早稲田大学に進学するが、2年生までは制球に苦しんだ[3]。3年生になった1968年東京六大学野球の秋季リーグで、早稲田は田淵幸一らを擁した法政に競り勝ち、4シーズンぶり通算24回目の優勝を飾る[4]。エースとして先発にリリーフに大車輪の活躍を見せた小坂は、優勝が懸かった最終週の早慶戦で2試合を投げていずれも完投勝ちし「胴上げ投手」となるなど、7勝を挙げてベストナインを獲得[3]。翌1969年第8回アジア野球選手権大会日本代表に選出される。リーグ通算36試合登板、22勝6敗、防御率1.68、218奪三振。大学同期には谷沢健一荒川尭小田義人などがおり、後に7人がプロ入りした。

1969年のドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。プロ1年目の1970年7月24日の対大洋ホエールズ戦で救援で初登板すると、28日の対中日ドラゴンズ戦で1点ビハインドの6回裏に救援登板し7回まで無失点に抑えると、直後に巨人が逆転して初勝利を挙げる。しかし、シーズンではこのは1勝に終わる。2年目からは2勝、4勝と勝ち星を増やした。1972年は6月末までに4勝1敗、防御率2.20と好成績を挙げ、オールスターゲームのファン投票でもかなりの票を集める。しかし、7月の北海道遠征を経て、環境の激変により体調を崩して全く勝てなくなってしまい、8月下旬以降は登板機会もなかった[5]

4年目のシーズンに備える1973年春季キャンプの1週間前に、高橋善正との交換トレードで渡辺秀武と共に日拓ホームフライヤーズへ移籍した。だが、この頃すでに肘に違和感を抱えており、思い通りの投球ができずにいた。1975年には2セーブを記録し、1976年に4年ぶりの勝ち星を挙げたが、活躍できず同年オフに引退[6]。引退後はアクセサリー販売会社を経て、保険会社に勤務した[1]

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選手としての特徴

小柄ながらオーバーハンドから投げ下ろす本格的なフォームから繰り出す速球やカーブに鋭い切れがあったが、精神面に起因する制球難があった[7]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 日拓(日拓ホームフライヤーズ)は、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

記録

背番号

  • 13 (1970年 - 1971年)
  • 24 (1972年 - 1976年)

脚注

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参考文献

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関連項目

外部リンク

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