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山本哲哉
日本のプロ野球選手 ウィキペディアから
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山本 哲哉(やまもと てつや、1985年9月4日 - )は、和歌山県日高郡由良町出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。
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来歴
要約
視点
プロ入り前
小学1年から白崎少年で野球を始め、中学時代は和歌山ライオンズでプレー。南部高校では岡本洋介の控えだった。
近畿大学では3年春から登板。3年秋、京都大学戦で初先発、5安打無四球で完封初勝利。以後、大隣憲司につぐ先発2番手として活躍。4年秋はリリーフ、抑えにまわり、チーム優勝に貢献した。リーグ通算20試合登板、5勝1敗、防御率1.25。近大の同期に小瀬浩之、3学年先輩に藤田一也、2学年後輩に俊介と荒木貴裕がいた。
その後、三菱重工神戸に入社。1年目からエースとなり、第79回・第80回と2年連続してチームを都市対抗野球出場に導く。特に第80回大会では最高球速148キロを記録した。
同年10月29日のドラフト会議で東京ヤクルトスワローズから2位指名を受け、11月27日に契約金7500万円、年俸1200万円で仮契約した(金額は推定)。この年のドラフト3位で前述の荒木も指名されたため、プロでも荒木と再びチームメイトになった。
プロ入り後
2010年はオープン戦最初の登板で好投したものの、その試合後に肘痛を訴え、検査の結果靱帯を損傷していることが判明。トミー・ジョン手術を受けたため、一・二軍とも公式戦出場なしに終わった。
2011年は怪我明けの影響から思うようなピッチングができなかった。
2012年はシーズン中盤にバーネットが離脱して以降は、セットアッパーに定着し、勝ちパターンでの起用が多くなる。2012年度の成績は50試合に登板して防御率1.21と好成績を記録した。
2013年もセットアッパーとして開幕を迎えたが、バーネットの不調もありシーズン序盤から抑えに回り11セーブを記録。中盤からは新人の石山泰稚との配置転換により再びセットアッパーとなり、自己最多の64試合に登板、25ホールドを記録した。
2014年は投手陣が全体的に低調だったこともあって、開幕後7試合中6試合に登板するなどシーズン序盤から登板を重ねた。7月に3試合連続で失点を喫し1度登録抹消となった[1]ものの、3年連続50試合登板をクリアした。一方でホールド数、防御率の面では数字を落とした。
2015年は一軍で17試合の登板にとどまる。その後9月に2度目の右肘内側側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けた[2]。
2016年は前年の手術の影響で一軍登板がなかった。
2018年9月30日に現役を引退することを発表[3]。10月8日、明治神宮野球場での阪神タイガース戦の7回表に引退登板し陽川尚将を中飛に打ち取り、同じくこの日引退する松岡健一と交代した[4]。試合後には引退セレモニーが行われ、ファンや関係者に感謝を伝えた[5]。
引退後
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選手としての特徴・人物
力強い速球に加え[11]、縦変化のスライダーやフォークなどを武器としている右腕[12][13]。現役時代は3年連続で50試合以上に登板するなど主にセットアッパーとして活躍した[13]。
実直な人柄の持ち主であり、誠実に取り組む姿勢からチームメイトに好影響を与える存在[13]。
詳細情報
年度別投手成績
年度別守備成績
記録
- 初記録
- 初登板:2011年8月20日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、6回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、6回裏に坂本勇人から見逃し三振
- 初ホールド:2012年6月27日、対横浜DeNAベイスターズ7回戦(セルラースタジアム那覇)、7回裏二死に2番手で救援登板、1/3回無失点
- 初勝利:2012年6月29日、対阪神タイガース6回戦(明治神宮野球場)、8回表一死に6番手で救援登板、2/3回無失点
- 初セーブ:2013年4月23日、対広島東洋カープ4回戦(明治神宮野球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(2013年)
背番号
- 20(2010年 - 2018年)
- 92(2021年 - )
登場曲
脚注
関連項目
外部リンク
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