トップQs
タイムライン
チャット
視点

山田守

建築家 ウィキペディアから

山田守
Remove ads

山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日)は日本の建築家逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。

概要 山田守, 生誕 ...
Thumb
初期の代表作・東京中央電信局(1925年、現存しない)

生涯

岐阜県羽島郡上中島村字長間(現・羽島市)生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学建築学科入学。1920年、青年建築家のグループ分離派建築会を結成する。同年、同校卒業[1]逓信省営繕課に入り、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行う。東京中央電信局(1925年、現存しない)ではパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された。1924年から復興局土木部に所属し、永代橋聖橋に代表される関東大震災後の震災復興橋梁のデザインを行った。

1929年から1930年にかけて、逓信省の命でヨーロッパ視察旅行に出かけベルリンに滞在した。当地では、ヨーロッパ各都市の建築を視察すると共に第二回CIAMに参加。また、ル・コルビュジェヴァルター・グロピウスエーリヒ・メンデルゾーンらを訪ね、近代建築運動に触れ、大きな影響を受けた。

1945年、逓信省退官。同年、逓信建設工業を開設し独立。1949年、山田守建築事務所設立。東海大学の設立に関わり、設立後は東海大学工学部建設工学科教授として後進を指導する。京都タワーでは「東寺の塔よりも高いものは建てない」ことが不文律となっていた古都の景観を乱すという批判を受け、1972年に施行された「京都市景観条例」に制定された巨大工作物規制区域設定の1項目として活かされることとなった[2]

Remove ads

受賞・受勲歴

作品

さらに見る 名称, 年 ...
Remove ads

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads