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川原政数
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川原 政数(かわはら まさかず、1937年1月5日 - )は、広島県尾道市[1]出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
来歴・人物
要約
視点
尾道西高卒業後の1955年に広島カープへ入団[2]。俊足で強肩強打の捕手として1年目から期待されており、肩に衰えが見えていた門前眞佐人の後釜候補であった[2]が、1年目は紅白戦で第五腰椎分離症を発症して僅か12試合の出場に留まった[2]。腰に鈍い痛みが走り、先天性の腰骨の異常原因であった[3]。暮れには中電病院に入院[4]するなど懸命に治療に励んだ結果[3]、2年目の1956年は腰の痛みも良くなり、中盤からは門前に変わってレギュラーとして出場することも増えて[2]69試合に出場[4]。門前も「これなら任せられる」と同年で引退し、リーグを代表する捕手に成長すると誰もが信じていた[3]。3年目の1957年は正捕手となったが、同年の終盤に再び腰痛に見舞われ、107試合に出場してシーズンを終えた[2]。打撃では6番に定着し、前半戦を終わった時点で規定打席数に1打席足りなかったが、打率.313をマーク[3]。守備の要がしっかりしたことでチームも一時、6月としては初の2位に躍り出るなど、ペナント争いの台風の目となった[3]。「広島のキャッチャーは15年は大丈夫」と他球団からうらやましがられた[4]が、オールスター休み中に広島市民球場ナイター開き前の小雨の中の練習で古傷を痛める[4]。後半戦は試合後に下半身の感覚が無くなるほど状態は悪く[3]、打率もチームの成績も急降下をたどり[3]、納会後に再び入院[4]。
1958年はキャンプにコルセットを着けて挑むなど復活を目指したが、南海から移籍してきた田中尊に正捕手を奪われてしまった[2]。川原に不運は続き、1959年に右肘を痛め手術。さらに右手親指の骨折、同薬指の腱断裂と度重なる怪我に悩まされ続けた[2]。強肩であった肩も怪我の影響で思うようにスローイングできず、鈍足の選手に盗塁を許すほどの状態であった[2]。観客は容赦なく激しい野次を浴びせ、強肩を自負する川原にとって、最も辛い日々であった[3]。
1962年には7月29日の中日戦(広島市民)で巨漢のドン・ニューカムと本塁で激突し、昏倒した川原は病院へ運ばれたが[4]、一週間意識不明の状態となった[2]。なんとか意識は回復したが、肋骨を1本折り、もう1本にはひびが入る重傷であった[4]。この日はダブルヘッダーで1試合目が終了して、川原は牛乳を1本飲んだだけであったのが幸いした[4]。もし食事をとっていたら[4]内臓破裂の危険もあった[2]。1963年に復帰して55試合に出場したが、「背番号6は、発音通りロクな番号ではない」とこぼす日も多かった[3]。復帰後はブルペンを仕事場に、ピンチに出て行く若手投手を勇気づけ、ベテランを気持ちよくマウンドに送り出す壁に徹した[3]。1964年は21試合、1965年は僅か3試合の出場にとどまり、同年引退。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 6 (1955年 - 1964年)
- 30 (1965年)
- 63 (1966年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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