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新井良夫
日本のプロ野球選手 (1950-) ウィキペディアから
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新井 良夫(あらい よしお、1950年7月17日 - )は、埼玉県[1]出身の元プロ野球選手。旧名は良雄、打撃投手になってからは、新井 統雄(あらい つねお)に改名している。
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来歴・人物
大宮高校(埼玉)では2年生時の1967年、右翼手として金子勝美・吉田誠・鈴木治彦らと共に第49回全国高等学校野球選手権大会に出場する。初戦で報徳学園高校と対決。豪快な本塁打を放ち9回裏2死までリードするが、ここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した[1]。しかし秋の埼玉国体では勝ち進み、決勝で大分商を降し優勝。翌1968年夏はエース、四番打者としてチームを牽引。埼玉大会準決勝では飯能高を相手にノーヒットノーランを記録。しかし決勝で、第40回選抜高等学校野球大会で優勝した大宮工の吉沢敏雄に抑えられ0-1xで敗退した。新井は右の本格派で、関東では巨人入りした島野修と並ぶ好投手といわれた。
1968年のドラフト5位で阪急ブレーブスに指名され、プロ入り。なお、後に「阪急ブレーブス黄金期」の主力選手となる山田久志・加藤秀司・福本豊といった面々も、新井と同時に入団している。
プロでは投手に専念し、2年目の1970年に公式戦初登板を果たす。1973年には51試合に登板、中継ぎとして活躍した。同年は2勝をあげ、7月1日には日拓ホームフライヤーズを、張本勲の適時打による1失点に抑え、初完投勝利を飾る。しかし翌年は登板数が激減。1976年6月26日には近鉄バファローズを相手に3年ぶりに先発。太田幸司と投げ合い完投するものの、クラレンス・ジョーンズに3本塁打、伊勢孝夫に満塁本塁打を喫するなど10失点、敗戦投手となりプロ野球としては珍しい記録となった。
1977年のシーズン開幕前に竹村一義とともに笹本信二との交換トレードで阪神タイガースに移籍したが、不本意な成績に終わり、1978年オフに引退。その後もチームに残り、1979年から1987年まで打撃投手を務めた。
若き日の堀内(巨人)を彷彿させるフォームであった。球種としては、ストレート、大きなカーブ、キレの良いスライダーを投げた。打撃投手としては、掛布の恋人と呼ばれた。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
背番号
- 36(1969年 - 1976年、1978年)
- 52(1977年)
- 69(1979年 - 1981年)
- 96(1982年 - 1987年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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