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笹本信二
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笹本 信二(ささもと しんじ、1952年4月18日 - )は、徳島県板野郡松茂町[1]出身の元プロ野球選手(捕手)。
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来歴・人物
鳴門高校では2年次の1969年、四番打者、捕手、主将として秋季四国大会決勝に進出。大北敏博・細川安雄のバッテリーを擁する高松商を降して優勝し、1970年春の選抜への出場を決める[1]。大会では下手投げエース落合登を擁して勝ち進み、準々決勝は淡口憲治・羽田耕一のいた三田学園に1-0で完封勝利、しかし準決勝では北陽高に2-6で敗れる[2]。同年夏は南四国大会準決勝で高知商の中沢一彦(法大-三菱自動車川崎)に抑えられ敗退、甲子園には届かなかった。高校卒業後は1971年に同志社大学に進学し、渡辺博之監督の指導を受け、1年下のエース田尾安志とバッテリーを組み活躍。関西六大学野球リーグでは1年次の同年春季から全試合に出場し優勝4回、ベストナインに4回選出される。リーグ戦通算95試合出場、346打数86安打、打率.249、8本塁打を記録。3年次の1973年には第4回明治神宮野球大会で決勝に進出するが、栗橋茂を打の主軸とする駒大に敗れ準優勝にとどまる。
1974年のドラフト3位で阪神タイガースに入団[1]。当時の正捕手は田淵幸一であったが、1年目の1975年から6試合に先発出場を果たす[3]。同年にはジュニアオールスターゲームにも出場してMVPを獲得しているが、一軍では出場機会がなかなか得られず、1977年のシーズン前に竹村一義・新井良夫との交換トレードで阪急ブレーブスへ移籍[1]。ここでも中沢伸二の控え捕手となり、4月24日のロッテ戦(西宮)で5度の盗塁阻止を記録したが、これは1試合に於ける盗塁阻止数の日本プロ野球タイ記録[4]である。1978年のヤクルトとの日本シリーズでは2試合に代走、代打として出場した。1979年は打撃が好調を維持し、先発は22試合にとどまるものの、代打の切り札としても起用される。自己最高の打率.327を残し、1981年には中沢がシーズン中盤に欠場したため、36試合に先発マスクを被った。1982年4月に藤城和明との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍[1]。ここでは山倉和博の控え捕手を務め、代打としても起用された。1983年には10試合に先発し、西武との日本シリーズでは、10月29日の第1戦(西武)で9回表に加藤初の代打として起用され、東尾修から安打を放つ。1984年には11試合に先発するが、1985年には控え捕手としての起用も減少し、1986年限りで現役引退[1]。
引退後はスコアラーを務め[1]、2015年から2017年までジャイアンツアカデミー校長を務めた。
プロ選手時代のポジションは主に捕手であったが、阪急では5試合に外野手として守備に就いた。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
表彰
- ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1975年)
背番号
- 20 (1975年 - 1976年)
- 28 (1977年 - 1982年途中)
- 22 (1982年途中 - 1986年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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