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新富卯三郎

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新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、本名:乙松 卯三郎〈おとまつ うさぶろう〉、1915年2月13日 - 1945年8月1日)は、福岡県出身のプロ野球選手[1]

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴

小倉工業では合わせて5度の甲子園に出場。主に三塁本塁を守った[1]。卒業後は門司鉄道局に進み、小柄ながら4番打者として活躍した[2]

1934年大日本東京野球倶楽部へ入団。第一次アメリカ遠征にも参加する[1]

遠征帰国後の1936年に軍隊に召集され退団するが1939年10月27日阪急軍へ入団し復帰する[1]1941年にはリーグ12位の打率.232をマーク。二塁打三塁打本塁打はチームトップの数字で、球団初の2位躍進に大きく貢献した。しかし、同年12月には第二次世界大戦のため再び軍隊に召集され、1945年まで生き残っていたが、終戦が近づいていた8月1日ビルマ戦線で地雷を踏み、30歳で戦死した[1][2]

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

選手としての特徴

小柄だが、全身を使ったパワフルなスイングで長打を量産した[3]1934年日米野球では、日本人選手の合計本塁打3本のうちの1本を放った。

エピソード

新富含む大日本東京野球倶楽部のメンバーが、寝台列車ノースダコタ州東部のファーゴという街に着いた際の事である。マネージャー鈴木惣太郎が点呼を取るが、新富だけがいない。慌てて車内に戻ると、新富が寝台の上で熟睡している。鈴木は新富の荷物を窓からプラットホームに放り投げ、間一髪で新富と鈴木は列車から降りる事が出来た。慌てふためく鈴木を余所に、新富は余裕の笑みさえ浮かべていたという[3]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 12 (1935年)
  • 27 (1939年 - 1941年)

脚注

関連項目

外部リンク

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