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早瀬方禧
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早瀬 方禧(はやせ まさよし、1940年4月11日 - 2012年8月15日)は、愛知県蟹江町[1]出身のプロ野球選手(外野手)。
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来歴・人物
中京商業高校では、3年時の1958年に左翼手、控え投手として春夏の甲子園に出場。春の選抜では決勝で済々黌高と対戦、この試合では自身もエース伊藤竜彦をリリーフして活躍したが、1-7で敗退し準優勝に終わる[2]。夏の甲子園でも2回戦で同じ済々黌高に敗れる[3]。1年下のチームメートに遊撃手の石黒和弘、控え投手の平沼一夫(中京大-西濃運輸-東京オリオンズ)がおり、彼等は翌1959年春の選抜優勝[2]の中軸となる。
卒業後は中京大学へ進学。エースとなった平沼らを擁し、愛知大学野球リーグでは8シーズン連続優勝。全日本大学野球選手権大会でも4年連続準決勝進出。リーグ通算91試合出場、308打数87安打、打率.282、5本塁打、54打点。首位打者2回、ベストナイン6回受賞。
卒業後の1963年、阪急ブレーブスへ入団。この年存在した研修制度[注釈 1]により6月末からの出場[4]となったもののプロ1年目から左翼手のレギュラーを獲得し、五番打者として94試合に出場した。1965年には三番打者、右翼手として117試合に出場し、打率.268はチームで2番目の成績だった。肩も強く1966年は11補殺を記録、同年は32試合に四番打者として起用されている。1967年には主に五番打者として、阪急のパシフィック・リーグ初優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは4試合に六番打者、右翼手として先発出場。しかし13打数3安打とあまり活躍の場はなかった。1968年には矢野清の台頭により控えに回るが、代打の切札として活躍し、チームは2年連続でリーグ優勝した。翌年、阪急は3年連続のリーグ優勝を成し遂げるも、ヘルニアにより[4]早瀬の出場はわずか10試合にとどまり、この年暮れに戦力外通告を受けた。
1970年より広島東洋カープへ移籍。しかし全盛期のような活躍はできず、1972年オフに引退した。
引退後は、地元・愛知で焼き鳥屋「やきとりの蕃」を経営した[4]。
2012年8月15日、肺がんのために死去[5]。72歳没。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 8 (1963年 - 1969年)
- 3 (1970年 - 1972年)
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関連項目
脚注
外部リンク
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