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星島二郎
日本の政治家、弁護士 (1887-1980) ウィキペディアから
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星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1980年(昭和55年)1月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
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来歴・人物
岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市藤戸町)出身。岡山中学校、第六高等学校、東京帝国大学卒業。政界入りする前は弁護士であり、東京・日比谷に片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。
戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、 母性保護連盟の委員として母子保護法の成立(1937年)にも尽力した[1]。
戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。あと4年議員を続ければ名誉議員の資格である議員在職50年の表彰を受けることができる状況で、秘書の加藤六月を後継者に指名し、政界を引退。政界引退後は自民党顧問、共立女子大学理事を務めた。
略年譜

- - 東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。弁護士となる傍ら犬養毅の秘書として政治の勉強をする。
- 大正9年(1920年)
- 大正11年(1922年)
- 大正14年(1925年)
- 昭和14年(1939年)
- 昭和16年(1941年)
- 昭和17年(1942年)
- 昭和20年(1945年)
- 昭和21年(1946年)
- 昭和22年(1947年)
- 昭和23年(1948年)
- 昭和26年(1951年)
- 6月 - サンフランシスコ講和会議全権委員。
- 昭和29年(1954年)
- - 自由党鳩山派の1人として自由党を離党、日本民主党の結成に参加。
- 昭和30年(1955年)
- 昭和33年(1958年)
- 昭和41年(1966年)
- - 政界引退。
- 昭和55年(1980年)
- 1月3日 - 老衰のため92歳で死亡。
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家族
星島家
- (岡山県倉敷市藤戸町、東京都)
- 曽祖父宜平は嘉永2年(1849年)に児島郡大庄屋となり、文久2年(1861年)には苗字帯刀御免となった[3]。宜平の弟茂八郎は分家を立てた[3]。茂八郎の子寛(ゆたか)は明治33年(1900年)から5年間藤戸村長を務め、その長男昴一も明治44年(1911年)から昭和12年(1937年)まで6期藤戸町長を務めた[3]。祖父啓三郎は、土地所有面積の拡大、更に、備前紡績をはじめとする地元企業への出資、藤戸銀行、星島銀行の創業など、家産の保全拡大に努めた[3]。父謹一郎は大正4年(1915年)から同12年(1923年)まで多額納税者として貴族院議員を務めた[3]。兄の義兵衛は岡山電気軌道などの役員をへて岡山県農工銀行頭取になり、山陽学園理事長・校長などをつとめた実業家[4][5]。弟の三郎(完雄)は1927年に山手線駒込駅で鉄道自殺した[6][7]。次弟の四郎兵衛は名古屋鉄道病院院長を務めた[8]。姪や甥(兄の子供)を通じて斎藤喜十郎財閥、嘉納財閥、辰馬本家酒造と姻戚関係にある。
刊行文献
脚注
外部リンク
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