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服部茂次
日本のプロ野球選手 (1934-1967) ウィキペディアから
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服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1967年7月[1])は、埼玉県北埼玉郡北河原村[1]出身のプロ野球選手。
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経歴
埼玉県立熊谷高等学校では1951年、2年生の時にエースとして夏の甲子園に出場[1]。準決勝では西山和良のいた県和歌山商を相手にノーヒットノーランを達成。しかし決勝は平安高に前半で大量失点、その後は平安のエース清水宏員を打ち崩せず、4-7で敗れ準優勝に終わる。この時のチームメートに一塁手の田岡利久(大映スターズ)がいた。翌1952年は病を得て登板できず、活躍の場はなかった。
1954年に洋松ロビンスへ入団[1]。4月21日に巨人を相手に初先発を果たすが、同年は4敗と結果を残せなかった。しかし1955年には開幕3試合目から先発陣の一角として活躍、2完封を含む5勝を記録する。その後は故障もあって低迷、1957年限りで引退。引退後は行田市役所に勤務。1967年7月に32歳で死去した。
詳細情報
年度別投手成績
- 洋松(洋松ロビンス)は、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更
背番号
- 34 (1954年)
- 27 (1955年 - 1957年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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