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木暮力三

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木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年不明)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。左投左打。西鉄などでプレーした木暮英路は実弟。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

桐生中学(現・群馬県立桐生高等学校)では、1939年の夏の甲子園一塁手として出場[1]1942年読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には応召した川上哲治に代わって一塁手のレギュラーとなり、読売ジャイアンツの第9代4番打者も務めた。

戦後の1946年に、かつて巨人監督だった藤本定義が監督に就任したパシフィックに入団。外野手のレギュラーとなり、打率.246を打ってリーグ33位に入った。しかし、同年限りでパシフィックを退団して、1947年は全桐生に参加し、都市対抗野球にも出場している。1948年に太陽ロビンス(パシフィックから改名)に復帰し、外野の控えを務めた。

1950年のセ・パ両リーグ分立に伴って、木下勇とともに新球団の西鉄クリッパースに移籍。外野のレギュラー格として、83試合に出場して打率.266を記録するが、この年限りで退団した。

守備に難があり、1950年5月14日の大映スターズ戦に左翼手として出場していたが、5-3で2点リードの9回裏二死満塁の場面で代打・渡辺一衛の飛球を落球する、満塁サヨナラ落球という球史に残る珍プレーを記録した。なお、この試合を球場で観戦していた作家の色川武大は後年、木暮のこのエラーを題材に『月は東に陽は西に』という作品を書いている(文春文庫『怪しい来客簿』所収)。

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詳細情報

年度別打撃成績

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  • パシフィックは、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に球団名を変更

年度別投手成績

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背番号

  • 26 (1942年 - 1943年)
  • 16 (1946年)
  • 27 (1948年 - 1950年[2]
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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