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木下勇 (野球)
日本の野球選手 ウィキペディアから
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木下 勇(きのした いさむ、1920年4月10日 - 1997年3月15日[1])は、鳥取県米子市[1]出身のプロ野球選手(投手)・高校野球監督。
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来歴・人物
鳥取県立米子中学校(現・米子東高校)3年生時の1935年に外野手として春・夏連続で甲子園に出場(他に投手清水秀雄⇒中日、捕手井上親一郎⇒国鉄初代主将、一塁手成田啓二⇒国鉄、2期後輩に土井垣武⇒大阪と、プロに進む選手が多数いた)。卒業後、1938年に大阪タイガースに入団[1]。アンダースローの軟投派投手で、シュートを武器としていた。1940年には開幕投手を務め、17勝を挙げた[1]。1941年の正月大会(対南海戦)では非公式試合ながらノーヒットノーランを達成している。1942年オフに退団しノンプロの大阪鉄道局米子に移るも、1年でプロに復帰し1944年は南海軍→近畿日本軍に所属した[1]。
終戦後、母校の米子中で打撃投手を務め、1946年の夏の甲子園の山陰大会鳥取県予選では野球部の臨時監督を務めた。この予選は米子中と鳥取第一中学校(現・鳥取西高校)の2校しか出場校がなく、開幕戦が決勝戦だった(2-9で敗れ準優勝)。
1947年は大阪鉄道管理局でプレーし、1948年に大陽ロビンスでプロに復帰[1]。1950年からは西鉄クリッパース→西鉄ライオンズに所属した[1]。1950年にパ・リーグ第1号本塁打を戸倉勝城(毎日オリオンズ)に打たれている。1952年オフに現役引退[1]。
1955年6月には境高校監督として迎えられたが、剛腕・米田哲也を擁しても夏の予選に勝てず退任し、同年秋に大橋棣の後を継いで、母校・米子東高野球部監督に就任した。翌1956年、夏の甲子園にエース・長島康夫を擁して出場し、ベスト4進出を果たした。1957年には鳥取県高校選抜監督として、ハワイ州選抜チームとの親善試合で指揮を執った。1959年は島根の大田高校野球部監督として、夏の甲子園に出場している。
1964年から1969年までは、米子工業高校の野球部監督を務めたが、甲子園には一歩届かなかった。
非常におおらかな性格で、練習風景は「木下式のんびりムード」などと言われた。しかし、それは大橋棣や岡本利之らとの比較における評価であり、木下が監督時代の練習を見ていた卒業生らは練習は厳しかったと述べている。監督引退後も、母校で後輩の指導にあたった。
1997年3月15日、死去。満76歳没。
投手としての球種はシュート、ドロップ、カーブ。
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詳細情報
年度別投手成績
- 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に球団名を変更
背番号
- 14 (1938年 - 1942年)
- 15 (1948年 - 1951年)
- 17 (1952年)
*昭和19年は全6球団で背番号廃止
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脚注
関連項目
外部リンク
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