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木藤隆行

日本の調教助手 ウィキペディアから

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木藤 隆行(きふじ たかゆき、1957年2月7日 - )は、東京都出身の元騎手・現調教助手

概要 木藤隆行, 基本情報 ...

来歴

要約
視点

馬事公苑騎手養成長期課程22期生として根本康広加藤和宏池添兼雄佐々木晶三小西一男と同期になり、1975年中山境勝太郎厩舎からデビュー。

1年目の1975年には3月1日の中山第7競走5歳以上500万下・トーワホープ(15頭中6着)で初騎乗[1]を果たし、5月11日東京第3競走4歳未勝利・ケイシュウワンダーで初勝利[2]を挙げる。

1年目は4勝[3]をマークし、2年目の1976年には6月26日27日の中山で初の2日連続勝利[4]を記録。

1978年には5月21日新潟で初の特別勝ちと初の1日2勝[5]を挙げるなど、初の2桁勝利となる20勝をマークするが、結局この年が唯一の20勝台で自己最多となった。

当時の境厩舎には木藤の他に兄弟子として東信二が所属していたが、管理馬はさくらコマース全演植オーナーが所有する「サクラ」の馬が大半を占めており、境の娘婿で全が実子のように可愛がっていた小島太 [† 1]が実質的に境厩舎の主戦騎手を務めていた。これらの要因から、木藤は「境厩舎の3番手騎手」という立場を余儀なくされており、追い切りを行ってもレースには騎乗出来ないという状況にあった[6]

1978年はホーワポートとのコンビで初の特別勝ちを含む4勝を挙げ、同年のステイヤーズステークス2着、明けて1979年東京新聞杯ではメジロファントムの3着に入った[7]

1984年函館3歳ステークスからはエルプス主戦騎手として活躍し[8]、初騎乗[8]となった連闘の函館3歳Sを逃げ切って[9]重賞初勝利[8]を飾り、木藤もデビュー10年目での重賞初勝利[10]となった。

木藤はエルプスを「凄い根性の持ち主」と評しており[11]、人馬共に重賞初勝利となった函館3歳Sは急遽出走が決定したものであった[12]。当時は開催当日に騎手が競馬場へ移動することが可能であった事もあり、木藤は函館へ移動する為に飛行機に搭乗したところ、偶然にも隣席にエルプスの小畑安雄オーナーが乗っており、「木藤君、今日うちの馬に乗ってくれるんだって?頑張ってね」と激励を受けた[6]

次走のすずかけ賞[8]では「桜花賞で逃げるのは難しい」と自分自身の中で勝手にその意識をしてしまい、同型馬に引いてしまうと、最後方まで下がって惨敗[6]。管理する久恒久夫調教師には「勝手なレースをするな」と怒鳴りつけられ、乗り替わりにされそうになったことがあったが、小畑が「もう1度だけチャンスをあげてほしい」と言ってコンビは継続[6]テレビ東京賞3歳牝馬ステークスではタカラスチールを抑えて14頭中11番人気の低評価を覆す重賞2勝目[8]を挙げ、明けて1985年4歳牝馬特別(西)で重賞2連勝[8]となるが、4コーナーで仮柵の白い色に驚いて、急に手前を替えたために、外の馬に迷惑をかけてしまう[6]。騎乗停止にはならなかったが、その時にトップ騎手たちから「木藤では桜花賞を勝てないから、乗せてほしい」という電話が久恒の元にかかってくる[6]。木藤は「もう乗り替わりになってしまうかもしれない」という思いになったが、小畑は「木藤で行ってくれ」と言ってコンビは無事に継続[6]

エルプスは逃げ馬にありがちな天才的なダッシュ力を持っているわけではなく、スタートはむしろ苦手であったが、木藤がゲートが開くとムチを連打してハナに立ち、そのままゴールまで粘りぬくという泥臭いレースぶりで勝利を重ねていった[13]。そのためか、勝っても勝っても人気にならず、6戦4勝(重賞3勝)という成績を残して桜花賞の舞台に駒を進めてきた時も2番人気であった[13]

桜花賞も例によってダッシュはそれほどでもなかったが、木藤の5発のムチに応えるように2コーナーでハナを切る[13]。そのまま主導権を取ると、桜花賞としては淡々としたペースに落とし、余力を持って4コーナーを回り、直線は襲い掛かるロイヤルコスマー・ミスタテガミを退けた[13]。木藤は自身唯一のGI勝利でクラシック制覇[10]となったが、管理する久恒も、生産牧場も同様であった[13]

2冠を期待された優駿牝馬[8]は距離が合わなかったか[9]逃げることができずに[13]惨敗したが、秋の京王杯AH[8]で古馬相手に当時の日本レコードにコンマ1秒差と迫る時計で逃げ切り、ローズステークス[8]も微差の2着[9]。3番人気に支持されたエリザベス女王杯[8]は末を失って[9]11着に沈んだが[13]、1985年の優駿賞最優秀4歳牝馬に選出されている[9]

木藤は同期の加藤や根本と仲が良く「美浦のひょうきん族」と呼ばれたが[14]、木藤が桜花賞を制した1985年は加藤がシリウスシンボリ東京優駿、根本がギャロップダイナ天皇賞(秋)を制したことから、馬事公苑22期生の当たり年となった。

1985年には15勝をマークし、1987年まで3年連続2桁勝利を記録したが、1988年以降は再び1桁台に成績が落ち込む[3]

1986年札幌3歳ステークスではエルプスと同じ久恒が管理する小畑の所有馬ガルダンサーに騎乗し、後方から追い込んだ[15]ゴールドシチーを抑えて逃げ切る[16]

1989年にはサクラサエズリで京成杯3歳ステークスを逃げ切ったのが最後の重賞勝利[17]となり、朝日杯3歳ステークスでは好スタートを決めてハナを奪い、五分のスタートから位置を上げたアイネスフウジンと並んでレースを引っ張る[18]。3コーナーでは後続に5馬身の差を付け、1000mを56.9秒のハイペースで通過[19]。4コーナーでは先に仕掛けてリードを作るが、直線では残り150m地点でアイネスフウジンを突き放されて2馬身半差2着に終わる[19] [18]

1990年6月10日札幌第4競走3歳新馬では新種牡馬サクラユタカオー産駒初出走となったサクラヤマトオーで勝利[20]したが、フリーに転向した1993年11月14日福島第1競走3歳オープン・アセンダントオーを最後に勝ち星は挙げられず[21]1995年6月18日の福島第3競走4歳未勝利・ワイセエルフェ(16頭中16着)を最後に現役を引退[22]

引退後は調教助手に転身し、2011年からは根本厩舎で活動している[6]

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騎手成績

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主な騎乗馬

太字はGIレース

  • エルプス(1984年函館3歳ステークス・テレビ東京賞3歳牝馬ステークス、1985年4歳牝馬特別 (西)・桜花賞・京王杯オータムハンデキャップ)
  • ガルダンサー(1986年札幌3歳ステークス)
  • サクラサエズリ(1989年京成杯3歳ステークス)
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脚注

参考文献

関連項目

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