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松平親忠

室町時代中期から戦国時代の武将。松平信光の三男。松平宗家4代。従五位下、左京亮。子に松平長家(-1540.7.9、左馬允、安城左馬助、安祥城主) ウィキペディアから

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松平 親忠(まつだいら ちかただ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将松平信光の三男。

概要 凡例松平親忠, 時代 ...
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生涯

初め額田郡鴨田郷(現岡崎市鴨田町)を根拠地としていたが、長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継ぐ[1]。しかし、間もなく出家して西忠と号した。親忠自身の治績はあまり知られておらず、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。

三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康家康らが本家を簒奪したため、親忠が4代当主扱いされたと言われている。

応仁元年(1467年)8月、第一次井田野合戦で品野(瀬戸市品野町)や伊保(豊田市保見町)の軍勢を破る。親忠は戦死者を弔うため、現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた[2][3][4][注 1]

文明2年(1470年)、松平氏の氏神として社(やしろ)を伊賀国より現在の岡崎市伊賀町の地に移した。これが伊賀八幡宮の始まりとされる[6]

文明7年(1475年)になって、千人塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた(現在の鴨田町字向山の西光寺)。そして鴨田郷の館跡に、松平氏菩提寺である大樹寺を創建した[2][6]文明9年(1477年)、大恩寺(愛知県豊川市御津町御津山山麓)の開基として同寺を中興する。

長享元年(1487年)、麻生城天野景孝を滅ぼし、九男・乗清を分立して成立した滝脇松平家を配置した[7]明応2年(1493年)第二次井田野合戦で、上野城阿部氏寺部城鈴木氏挙母城中条氏伊保城三宅氏八草城那須氏らを破り、武名を挙げた。

明応5年(1496年)、三男・長親に家督を譲り、隠居。また子を分立して大給松平家滝脇松平家などを成立させたほか、第四子の存牛は出家し、信光明寺住持などを経て、京都の浄土宗総本山知恩院住持を務めた。文亀元年(1501年)8月10日に71歳(または63歳)で死去した。

阿知和に通じる井田野の真福寺道の東で荼毘に付され、松平親忠荼毘所として、松平親忠公荼毘之跡と記された石碑が、岡崎市井田町4丁目120に立つ[8][9]

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ギャラリー

脚注

参考文献

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