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松殿忠房

鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。関白・松殿基房の四男。正二位・大納言。 ウィキペディアから

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松殿 忠房(まつどの ただふさ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿関白松殿基房の四男。官位正二位大納言

概要 凡例松殿忠房, 時代 ...

経歴

建仁2年12月(1203年1月)元服と同従五位上に叙される。近江権介右中将歴任のち、建永2年(1207年従三位に昇る。建暦元年(1211年権中納言、翌年に中納言、建保3年12月(1216年1月)権大納言に昇る。

元仁元年12月25日(1225年1月)には大納言に昇った。この時点で三条家西園寺家大炊御門家等の清華家当主達とは昇進速度はほぼ同じだった。しかし、寛喜2年(1230年)の父・基房の死から1年余り後の貞永元年(1232年)3月[1]突如九条道家の意向によって大納言を解任されている[2]。基房の没後、忠房の母と異母兄の松殿師家はその遺領を巡って対立を続け、最終的には九条教実の裁定で師家の勝訴している。こうした事情から突然の大納言解任は松殿家の内紛に原因があったのではないかとする見方もある[2]。その後、三条実親西園寺実氏土御門定通大炊御門家嗣徳大寺実基が次々忠房を追い越して大臣に昇進する(彼らのうち、実基以外は権大納言から正官を経ないで昇進している)。九条道家・一条実経父子の失脚時には摂関の候補者にもなった[3]が、就任は叶わなかった[4]

文永10年(1273年)に薨去。享年81。

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官歴

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系譜

脚注

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