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天皇の一覧

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天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇及びその他の天皇の一覧である。

概要

皇統譜』に基づくかぎり、歴代天皇は、初代神武天皇から今上徳仁まで、126代が挙げられる。この126代のうち、第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の、それぞれ重祚(一度譲位した天皇が再び位に就くこと、再祚)であるため、総数は124人となっている。

ただし、南北朝時代に、北朝京都)で即位した天皇のうち、後小松天皇を除く光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇、及び後円融天皇の5代、5人は、明治時代に歴代天皇から除外されたため、この126代の天皇には数えられないものの、宮中祭祀等においては天皇として扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は129人と数えられることもある。

また、皇統譜以外にも様々な皇室の系譜が過去に作成されており、様々な歴代天皇の数え方があった。例えば、後小松上皇の命令で編纂され、明治以前の一般的な皇室の系譜となった『本朝皇胤紹運録』では、後醍醐天皇を除く南朝天皇を天皇と認めずに北朝天皇を歴代天皇に数え、弘文天皇および仲恭天皇を歴代に数えず、神功皇后を歴代に数えている。

なお、「天皇」(てんのう(てんわう)、すめらみこと、すめろき)という名称は、7世紀後半に在位した第40代天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。また冷泉天皇(在位967年 - 969年)以後、光格天皇(在位1779年 - 1817年)の時に諡号が復活するまで、安徳天皇後醍醐天皇を例外として、天皇号は生前も崩御後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇明正天皇は崩御後「後水尾院」「明正院」と呼ばれ、これらを一律に「後水尾天皇」「明正天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[1]

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初期天皇の実在性

要約
視点

初代神武天皇から第25代武烈天皇までの実在性については、諸説ある。第二次世界大戦後の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。しかしながら現代でも神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇が特に研究対象として重視されている[注釈 1]

初代神武天皇以降を実在とする説

古代から第二次世界大戦中までは日本では神武天皇のみならず「欠史八代」も含めて実在したと考えられてきた(第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、『日本書紀』に事績等に関する記述がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる)。その後も実在性を唱える者は坂本太郎田中卓鳥越憲三郎林房雄古田武彦[注釈 2]森清人[2]安本美典竹田恒泰などが存在する。

第10代崇神天皇以降を実在とする説

戦後になると神武天皇及び「欠史八代」の実在は疑問視されるようになった。また神武天皇と崇神天皇の尊号が同一(ただし漢字表記は別)であることから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとして、崇神天皇を実在可能性がある最初の天皇とする説が一般化した。1970年代までは崇神から応神までの実在を否定的にみる説が優勢であったが、1978年昭和53年)に稲荷山鉄剣の銘文が新聞紙上でスクープになると銘文の「意富比垝」が、崇神朝に活躍した大毘古に同定されるとする説が出て、崇神天皇以降の実在性が高まった。

第15代応神天皇以降を実在とする説

津田左右吉によって、4世紀後半から5世紀初めにかけて在位したと考えられる応神天皇が初代天皇とみなされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、第二次世界大戦後、歴史学の主流となった。これには倭の五王を記紀に伝えられる天皇と同一視する説が有力であり、この場合、中国の史書が該当する天皇の実在を傍証することになる(ただし倭の五王を具体的にどの天皇だと見るかは諸説ある)。なお、倭王武に比定される第21代雄略天皇に関しては稲荷山鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」および江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀銘文の「獲□□□鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解し、実在の証とする説がある。これ以前から雄略天皇の実在は有力視されていたが、この発見により考古学的に実在が証明される最古の天皇となった。

第26代継体天皇以降を実在とする説

戦後の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されていた。このため、6世紀前半に在位したと考えられる第26代継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、雄略天皇を別として、武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。また、継体天皇以前の天皇を実在とみなす学説であっても『日本書紀』の編年を事実とは認めないことがほとんどだが、継体天皇以降は書紀その他の史料に伝えられた在位年数などの数値はかなりの程度史実とみなされている(継体天皇の即位年について書紀を信頼するかは説が分かれる。また継体崩御から第29代欽明天皇の即位までの間の編年は伝承自体に諸説がある他、欽明天皇から第33代推古天皇までは記紀の間に最低1年~数年程度のズレもあるが、継体天皇以降はほぼ史料的価値が認められている)。

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歴代天皇の確定

要約
視点

歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は126代124人」という2023年(令和5年)現在の歴代天皇の形が確定している。

歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。

歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいてあるべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定した。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更点は次の通り。

  • 明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、歴代天皇から外された。『大日本史』が採った立場に基づくものである。この結果、第33代推古天皇が最初の女性天皇となった。
  • 初代神武天皇から第62代村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代冷泉天皇から第118代後桃園天皇までは、「○○院」(例:冷泉院)とのみ称された。(ただし、安徳天皇後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代光格天皇の代からである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と称するように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された[注釈 3]
  • 壬申の乱で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたということになり、1870年(明治3年)に「弘文天皇」の諡号を追諡した。現在では非即位説が有力である。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説を参照されたい。
  • 第47代「淡路廃帝」に対しては、1870年(明治3年)に「淳仁天皇」の諡号を追諡した。
  • 承久の乱に敗れた「九条廃帝」は天皇に数えられてはいなかったが、1870年(明治3年)に「仲恭天皇」の諡号を追諡した。
  • 1911年(明治44年)には明治天皇の裁定により、南朝の義良親王と熙成親王を正統な天皇と認め、これを後村上天皇後亀山天皇とした[注釈 4]。それまでは正統な歴代天皇として扱われていた光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇の5代を北朝の天皇として歴代天皇から外すとともに、後小松天皇の在位期間を1392年(明徳3年)の南北朝合一以後のみとした。これも『大日本史』が採った立場に基づくものである。
  • 1926年(大正15年)には大正天皇(実質は摂政皇太子裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、南朝の寛成親王を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、南朝を正統とした後も即位の是非について意見が分かれていたが、高野山に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名があることなどの史料によってその即位が確認されたということになり、天皇としたものである。

歴代天皇一覧

要約
視点

凡例

  • この表は、大正時代に歴代天皇として確定し、現在広く知られている「歴代天皇の一覧」である。宮内庁の公式サイトに掲載されている天皇一覧[3]と同一である。
  • 天皇名については、宮内庁公式サイト内の表記[3]と同一である。丸括弧( )内の表記は、宮内庁サイト内の天皇陵紹介ページにおける表記[4]と同一であるが、JIS標準漢字(JIS X 0208)外の異体字が含まれているため、Unicode表のBMP(基本多言語面、0面)が表示できるブラウザ環境でなければ正しく表示されない。
  • 天皇名の読みについては、宮内庁サイト内の表記[3]と同一である。丸括弧( )内の表記は歴史的仮名遣に基づいた表記である。
  • 新暦グレゴリオ暦)が施行された1873年(明治6年)1月1日以前の日付については、各時代に用いられた旧暦の日付である(ただし6世紀以降の天皇の生没年・在位期間については、西暦に置き換えた年代を丸括弧( )内に掲載した)。享年は数え年、明治天皇以降は満年齢とした。
  • 6世紀以前の天皇の生没年・在位期間については、『日本書紀』の記述を掲載した。継体天皇から崇峻天皇までは『日本書紀』に記された在位期間を機械的に西暦に置き換えた年代を丸括弧( )内に掲載した。
  • 在位の欄には、第49代光仁天皇以前の天皇については即位の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って践祚した第50代桓武天皇以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。
  • 備考欄に「女帝」とあるのは女性天皇(女性天皇の詳細については当該記事を参照)。

一覧表

さらに見る 代, 漢風諡号/ 追号 ...
  1. 雄略天皇に関して、通説では稲荷山古墳出土鉄剣の「獲加多支鹵大王」銘や江田船山古墳出土鉄刀の「獲□□□鹵大王」銘が、大王の諱の「ワカタケル」に比定される(「雄略天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。)。
  2. 天智天皇は661年7月24日称制したため、『日本書紀』においては天智天皇元年は皇極天皇崩御翌年の662年となっている。
  3. 弘文天皇は明治3年に追諡されて第39代天皇として認められたが、実際に即位したか否かには議論がある。
  4. 1912年7月30日は大正元年でもある。
  5. 1912年7月30日は明治45年でもある。
  6. 1926年12月25日は昭和元年でもある。
  7. 1926年12月25日は大正15年でもある。
  8. 天皇の退位等に関する皇室典範特例法により定められた称号である。
  9. 一世一元の制」による「元号法」並びに「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」の規定により、「平成」に改元したのは、翌8日
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記録

在位期間の長い天皇

  1. 孝安天皇(第6代): 18264日(102年)→9132日(51.0年)
  2. 垂仁天皇(第11代): 17726日(100年)→8863日(50.0年)
  3. 仁徳天皇(第16代): 15719日(87年)→7860日(43.5年)
  4. 孝昭天皇(第5代): 14818日(83年)→7409日(41.5年)
  5. 神武天皇(初代): 13584日(76年)→6792日(38.0年)
  6. 孝霊天皇(第7代): 13541日(76年)→6771日(38.0年)
  7. 崇神天皇(第10代): 12379日(68年)→6190日(34.0年)
  8. 昭和天皇(第124代): 22660日(62年)
  9. 成務天皇(第13代): 10750日(61年)→5375日(30.0年)
  10. 開化天皇(第9代): 10740日(61年)→5370日(30.5年)
  11. 景行天皇(第12代): 10710日(60年)→5355日(30.0年)
  12. 孝元天皇(第8代): 10093日(57年)→5047日(28.5年)
  • 文献に書かれた年数の正確性にほぼ疑問が無いとされる欽明天皇(第29代)以降に限る場合は次の通り。
  1. 昭和天皇(第124代): 22660日(62年)
  2. 明治天皇(第122代): 16604日(45年5か月)
  3. 光格天皇(第119代): 13641日(37年4か月)
  4. 後土御門天皇(第103代): 13211日(36年2か月)
  5. 後花園天皇(第102代): 13133日(35年11か月)
  6. 推古天皇(第33代): 12875日(35年3か月)
  7. 醍醐天皇(第60代): 12127日(33年2か月)
  8. 欽明天皇(第29代): 11454日(31年4か月
  9. 後奈良天皇(第105代): 11434日(31年3か月)
  10. 後小松天皇(北朝6→第100代): 11093日[注釈 5](30年4か月)
  11. 明仁(第125代): 11071日(30年3か月)
  12. 正親町天皇(第106代): 10613日(29年1か月)
  13. 後村上天皇(第97代): 10421日(28年6か月)
  14. 仁孝天皇(第120代): 10341日(28年3か月)
  15. 後柏原天皇(第104代): 9315日(25年6か月)

長寿の天皇(天皇の宝算の長さ)

  • 明仁を除き、崩御時の満年齢。括弧内は数え年。※は退位後に崩御。
  1. 景行天皇(第12代): 143歳
  2. 仁徳天皇(第16代): 143歳
  3. 垂仁天皇(第11代): 139歳
  4. 孝安天皇(第6代): 137歳
  5. 孝霊天皇(第7代): 128歳
  6. 神武天皇(初代): 127歳
  7. 崇神天皇(第10代): 119歳
  8. 孝元天皇(第8代): 116歳
  9. 孝昭天皇(第5代): 114歳
  10. 応神天皇(第15代): 111歳
  11. 成務天皇(第13代): 107歳
  12. 明仁(第125代): 91歳4か月 93歳)
  13. 昭和天皇(第124代): 87歳8か月(89歳)
  14. 後水尾天皇(第108代): 84歳2か月(85歳)※
  15. 綏靖天皇(第2代): 84歳
  16. 継体天皇(第26代): 82歳
  17. 陽成天皇(第57代): 80歳9か月(82歳)※
  • 文献に書かれた年数の正確性にほぼ疑問が無いとされる欽明天皇(第29代)以降に限る場合は次の通り。
  1. 明仁(第125代): 91歳4か月 93歳)
  2. 昭和天皇(第124代): 87歳8か月(89歳)
  3. 後水尾天皇(第108代): 84歳2か月(85歳)※
  4. 陽成天皇(第57代): 80歳9か月(82歳)※
  5. 霊元天皇(第112代): 78歳2か月(79歳)※
  6. 白河天皇(第72代): 76歳(77歳)※
  7. 推古天皇(第33代): 75歳

高齢で即位(践祚)した天皇

  • ただし、文献の正確性が高い欽明天皇(第29代)以降に限る。即位(践祚)時の満年齢。括弧内は数え年
  1. 光仁天皇(第49代): 61歳(62歳)
  2. 徳仁(第126代): 59歳(60歳)
  3. 明仁(第125代): 55歳(57歳)
  4. 光孝天皇(第58代): 54歳(55歳)
  5. 孝徳天皇(第36代): 49歳(50歳)
  6. 皇極天皇(第35代): 48歳(49歳)
  • なお、皇極天皇は斉明天皇(第37代)として61歳(62歳)で重祚している。

在位期間の短い天皇

  1. 仲恭天皇(第85代): 78日(2か月)
  2. 弘文天皇(第39代): 226日(7か月)
  3. 用明天皇(第31代): 596日(1年7か月)
  4. 光厳天皇(北朝1代): 625日(1年8か月)
  5. 花山天皇(第65代): 677日(1年10か月)

年少で即位(践祚)した天皇

  1. 六条天皇(第79代): 0歳7か月(2歳)
  2. 安德天皇(第81代): 1歳4か月(3歳)
  3. 四条天皇(第87代): 1歳7か月(2歳)
  4. 土御門天皇(第83代): 2歳1か月(4歳)
  5. 仲恭天皇(第85代): 2歳6か月(4歳)

早世した天皇

  • 崩御時の満年齢。括弧内は数え年。※は退位後に崩御。
  1. 安徳天皇(第81代): 6歳4か月(8歳)
  2. 四条天皇(第87代): 10歳10か月(12歳)
  3. 六条天皇(第79代): 11歳7か月(13歳)※
  4. 仲恭天皇(第85代): 15歳7か月(17歳)※
  5. 近衛天皇(第76代): 16歳2か月(17歳)
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歴代外天皇(公式)

要約
視点

北朝天皇

明治時代まで歴代天皇に数えられていたものの、明治時代に南北朝正閏問題が政治問題になり、歴代天皇から除外された。ただし、明治天皇の配慮により、宮中祭祀などでは天皇として扱われている。なお、その後、南朝正統には歴史的事実からの乖離や論理的な誤りが指摘されることになった。例えば、『大日本史』などが主張する「北朝の天皇は本物の三種の神器を継承していない」という主張は、謬説であることが明らかとなっており、少なくとも北朝の天皇のうち光厳天皇は確実に「本物の三種の神器」を継承していたことが明らかとなっている[14][15][16](詳細は北朝 (日本)#北朝の三種の神器)。現在では両朝並立が原則とされるが、こうした指摘がありながらも、依然として南朝正統に基づく歴代天皇代数は修正されていない。

追尊天皇

薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。

  • 岡宮天皇 - 草壁皇子。40代天武天皇皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。
  • 尽敬天皇 - 舎人親王。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。「崇道尽敬皇帝(旧字体表記、崇道盡敬皇帝)」とも。
  • 春日宮天皇 - 志貴皇子。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。
  • 崇道天皇 - 早良親王。50代桓武天皇の弟で廃太子(785年(延暦4年)薨去)。800年(延暦19年)、「崇道天皇」を追尊。
  • 陽光天皇 - 誠仁親王。107代後陽成天皇の父。106代正親町天皇の東宮だったが即位前に薨去。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光院太上天皇」とも。
  • 慶光天皇 - 閑院宮典仁親王。119代光格天皇の父。1884年(明治17年)、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。 → 尊号一件

追号天皇

  • 後高倉院 - 守貞親王。86代後堀河天皇の父。承久の乱の結果、緊急に皇嗣が回ってきたが親王は既に出家していたため即位できず、子の後堀河天皇が即位する。同時に当人は天皇の父として治天の君となり、皇位を経ずして太上法皇(出家していたため「法皇」)となり院政を執る。崩御後に院号(後高倉院)を贈られた。皇統譜では「後高倉天皇」。
  • 後亀山院 - 第99代後亀山天皇。明徳の和約の2年後、太上天皇の尊号を贈られる。北朝方の強い反発により、朝廷では異例の16日間にわたる議論が続き、最終的には足利義満の意向により実現したが、「不登極帝」(正式には天皇に即位していない者)への尊号授与であることが強調された。明治44年(1911年)に南朝が正統とされ、歴代天皇として公認されるようになった。
  • 後崇光院 - 伏見宮貞成親王。102代後花園天皇の父。上記の後高倉院と後亀山院の事例を先例として、生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。
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歴代外天皇(非公式)

伝号天皇

日本武尊と市辺押磐皇子の二人については、本人の薨去の後その息子が即位して天皇になっているため、上記の「追尊天皇」の先行形態とみる説もある。また飯豊青皇女と間人皇女は実際に天皇だったのではないかと考える説もある。

対立君主

南朝の天皇と北朝の天皇も相互に対立君主であるがここでは(南北朝を除いて)敗れた方の天皇をあげている(勝った方は公式の天皇一覧に入っている)。

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関連人物の一覧

要約
視点

天皇に準ずる立場にあった者

  • 蘇我馬子蘇我蝦夷蘇我入鹿 - 大臣。蘇我氏皇別氏族であり、大王家と二重三重の縁戚ではあったが、あくまで人臣であった。それにも関わらず、蘇我氏の邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は皇子に準じた扱いを受けた。
  • 聖徳太子 - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『隋書』に記述された俀王多利思比孤は聖徳太子を指すとする説や、即位して実際に天皇だったという説もある。
  • 弓削道鏡 - 48代称徳天皇の寵愛を受け、「法王」に就任し天皇に準ぜられた。後世の史書においては弓削法皇という表記もある。
  • 敦明親王小一条院) - 67代三条天皇皇子。1016年(長和5年)、東宮。当時の権力闘争のキーパーソンとなり、翌1017年(寛仁元年)に自ら東宮を退き、交換条件の形で院号宣下を受け太上天皇に准ずる。
  • 西陣南帝 - 南朝の皇胤。名や系譜は不明。応仁の乱の際、山名宗全(西軍)により擁立されたが天皇を称した訳ではない。
  • 女院 - 東三条院に始まる女院の制度は、基本的に院すなわち太上天皇に準ずる制度である。前項の小一条院の例も女院の制に倣ったものである。
  • 葛城氏藤原氏平家北条氏足利氏豊臣氏徳川氏など - それぞれ一時期天皇に匹敵するかもしくはそれを凌ぐ権勢を振るった。徳川将軍は鎖国時代に欧州において「日本の皇帝」として知られていた。足利将軍については下記。

日本国王(対外的に天皇に準ずる者)

  • 懐良親王 - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、から倭寇の取り締まりを求められ「日本国王」の冊封を受ける。
  • 足利義満 - 室町幕府3代将軍准三宮(三宮(皇后・皇太后・太皇太后)に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが幕府はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。
  • 徳川将軍 - 対外的な称号を「日本国大君」から一時的に「日本国王」に変更したことがある。

新皇

  • 平将門 - 桓武天皇5世孫。940年(天慶3年)、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。「新皇」の意味について『将門記』の記述からはそれまでの歴代天皇を継承するつもりでの自称天皇だったのか別の新王朝を起こしてその始祖になったつもりだったのか、両方に解釈可能であり判然としない。

後南朝

(※後世の後南朝伝説では5代にわたる歴代の後南朝天皇(自称天皇)がいたとするものもあるが、史実として天皇を自称したのは自天王だけである)

  • 自天王(自天勝公) - 諱は尊秀。系譜、実名ともに不明である(自天王尊秀王は別人であるともされている)。自ら天皇を称して奥吉野で即位。長禄元年12月、赤松氏の遺臣により暗殺される(長禄の変)。後世の後南朝伝説では後亀山天皇の曾孫(あるいは惟成親王の曾孫)、中興天皇の息子という設定にされていることが多い。

自称天皇(近現代)

歴史上、天皇を自称した人物。参考文献は『天皇家歴史大事典』(別冊歴史読本新人物往来社、2000年)211頁以下、保阪正康『天皇が十九人いた』(角川文庫、2001年)14頁以下、中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年)108頁以下による。

倭王

中国の史書に登場する人物及び称号。倭の五王は歴代天皇に比定されている。

その他

  • 伊都都比古 - 日本書紀に登場する穴門(長門)の人物。崇神天皇の代の頃に対外的に倭の国王を自称したが相手にされなかったという。
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創作に登場する架空の天皇

源氏物語にあらわれる天皇

後南朝伝説

(※後世の後南朝伝説では金蔵主を後南朝初代「中興天皇」、「自天王」を後南朝2代、尊雅王を後南朝3代「南天皇」、「西陣南帝」を後南朝4代とするがこれらのことは同時代史料では確認できず、初出は江戸時代以降。「自天王」以外の人物は実際には天皇を自称した訳ではない)

脚注

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関連項目

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外部リンク

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