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桜井七之助
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桜井 七之助(さくらい しちのすけ、1918年11月4日 - 没年不明)は、神奈川県[2]出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、三塁手、外野手。
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来歴・人物
神奈川工業学校在籍中は、快速球とカーブを兼ね備えた好投手として知られており、1935年夏の大会の甲神静大会予選では準決勝の静岡中学戦でノーヒットノーランを達成。決勝の甲府中学戦で五味芳夫(のち金鯱)と投げ合い、4-5で惜敗して惜しくも甲子園出場は成らなかった。
翌1936年に大東京軍の結成に参加[2]。1936年秋季シーズンでは開幕投手を務めるなど、ドロップやカーブを武器に、チームの主戦投手として活躍した。しかし、同シーズンの大東京は歴史に残る大不振で、5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)しか残せず、桜井自身も1勝[3]10敗、防御率5.20と散々な成績に終わった(最多敗戦投手及びリーグワースト防御率〈規定投球回達成者19人中〉でもあった)。同年9月18日の大阪戦(甲子園球場)では8回完投したものの12与四球・17失点の日本プロ野球ワースト記録(当時)を樹立[4][5]。翌1937年9月12日の金鯱戦(後楽園球場)でも8回完投したが自身2度目の日本タイ記録となる12与四球を記録する[6]など、制球難に苦しんだ。坪内道典の著書によれば「140km台の速球を持っていたが、ボールの回転が素直でよく打たれた。しきりに投球姿勢と走者を気にして落ち着かなかった。」と、打者に読まれやすかった球種とマウンド度胸の無さを指摘されている[7]。
投手登録ではあったが、1938年からは、ほぼ野手として出場。一塁を守ってキビキビしたプレーは人気があった。1939年まで現役を続けたが、1軍の試合に出場したのは1938年が最後である。1939年に引退した[2]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大東京(大東京軍)は、1937年秋にライオン(ライオン軍)に球団名を変更
年度別打撃成績
- 大東京(大東京軍)は、1937年秋季にライオン(ライオン軍)に球団名を変更
記録
- その他の記録
背番号
- 14 (1936年 - 1939年)
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関連項目
脚注
外部リンク
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