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森安輝正
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森安 輝正(もりやす てるまさ、1959年3月15日 - )は、千葉県印旛郡富里町(現・富里市)出身の元騎手・元調教助手[1]。
旧名および現名「菅沼 輝正」〈すがぬま てるまさ〉。
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来歴
要約
視点
ラッカセイ農家を営む両親の下で幼少期は幸せに暮らしていたが、森安が小学校に入学した頃、父が悪い仲間と共に賭博と女を覚えてしまい、家に金を入れず遊び歩くようになってしまう[2]。
小学校3年生であった森安は近くの牧場でバイトし、バイト代500円を毎日母親に渡していたが、4年生になった頃には遂に母親が小さかった弟と一緒に出て行ってしまう[2]。
森安はバイトで自分の生活費を稼いでほぼ一人暮らしの状態になってしまうが、ギャンブルで競馬が好きな父が自分の土地を切り開き、競走馬の牧場を初めることになり、父と一緒に働き始める[2]。父の牧場で馬に騎乗することを覚えるが、初めて騎乗したポニーには麻袋1枚を鞍の代わりに背中に敷いて腹帯を締めた状態であり、初めはキャンターが出ず、言うことを聞いてくれなかった日々が続く[2]。
小学校も行かず、中学校もほとんど行かず、父の牧場で働き、中学校3年生になった頃には父が遊びで作った借金を牧場の稼ぎで全て返し切ることに成功[2]。
父の牧場などで馬に乗り、周辺の育成牧場で馬乗りのバイトをし競走馬に乗るスキルを身に付けていくうちに、騎手になることを夢みるようになり、騎手を目指すことになる[2]。
中山・稗田敏男厩舎に入門し、騎手候補生時代は根本康広と共に馬事公苑に乗馬の練習をしていた[3]。稗田厩舎では起床後に馬の前運動に乗り、無休で毎日12頭の攻め馬をすると、攻め馬が終わると乗馬苑に行き乗馬に2、3頭乗っていた[3]。午後の厩舎作業では3、4頭の馬に乗った後、草むしり、庭の掃除、洗車、犬の散歩、靴磨き、夕食の買物などもやっていた[3]。
騎手候補生時代は3000円しか生活費を貰えなかったため、他厩舎の馬を一頭乗った時に貰える500円で生活費を稼いでいたが、稗田や他の調教師にも「人間とにかく我慢しなさい」と教えられた[3]。
1979年に騎手免許を取得し、稗田厩舎からデビュー。
1年目の1979年は3月3日の中山第3競走4歳未勝利・スガケヤキで初騎乗を果たし、追い通しで4着であった[4] [5]。4月22日の東京第1競走4歳未勝利・コクサイイーグルで直線3、4番手から抜け出して初勝利を挙げたが[4] [6]、初年度はこの1勝に終わった[7]。
デビューしてから3年間は3kg減の見習騎手でたったため、毎週のように斤量49kgに乗らななければならないため減量との闘いでもあった[4]。日曜競馬が終わると日月で好きな物を食べ、火曜日には体重が55kgくらいになり、土曜日には47kgにしなければいけない生活を3年間続ける[4]。減量は毎日のランニング、調整ルームの風呂での汗取りであったが、調整ルームでは入ったら先輩の背中を流さなければならないという暗黙のルールがあり、怠ると殴られたが、郷原洋行・吉永正人など錚々たる騎手の背中を流してきた[4]。常に下剤と利尿剤も服用しながらの減量であり、土日の朝には競馬場の救護室でアリナミンとブドウ糖を注射してもらい、なんとか持ち堪えていた[4]。
騎手になって2年目には減量が辛すぎてノイローゼ気味で自殺も考えたが、勝利時の気持ち良さが忘れられず思いとどまっていた[4]。
3年目の1981年には6月20日・21日の福島で初の2日連続勝利[8]、9月5日の函館では初の1日2勝[8]を記録するなど、初の2桁勝利で自身唯一の20勝台となる20勝[7]をマーク。
1982年には東京障害特別(春)・イチエイボーイで重賞初勝利[8]を挙げたほか、中山大障害(春)では同馬、大障害(秋)ではモンタサン産駒モンタアローで共にキングスポイントの2着に入った[9] [10]、平地の函館3歳ステークスでも中村好夫厩舎の関西馬ルーキーオーでシャダイソフィアの2着に入った[11]。
1983年には2年ぶりの2桁勝利となる12勝[7]をマークし、1984年の東京障害特別(秋)ではテイオージャでブルーフラール・メジロアンタレスに勝利し[12]、1985年の中山大障害ではメジロアンタレスと同厩のノースリーガルでオンワードボルガの2着[13]に入った。
1986年から森安弘昭厩舎に移籍すると同時に、森安の娘と結婚したことにより改姓。
1987年には1月31日の小倉第7競走4歳以上400万下を16頭中15番人気クニノグレンターで2着に5馬身差付けて勝利し、単勝・枠連万馬券[14]の波乱を起こすが、同年に挙げた12勝が4年ぶりで最後の2桁勝利[7]となった。
1990年にはキヨヒダカ産駒ヒダカハヤトでOP特別のオータムスプリントステークスではニフティニース・リンドホシの人気2頭に割って入る2着とし[15]、カブトヤマ記念では逃げ切って重賞初勝利[16]に導くが、自身は唯一の平地重賞勝利で最後の重賞勝利となった[17]。
1991年は初めて0勝に終わったが[7]、1992年12月13日の中京第4競走4歳以上500万下を13頭中10番人気ミスライブリーで逃げ切って馬連万馬券[18]の波乱を起こす。
1993年にはオークスデーの5月23日の東京最終第11競走4歳以上500万下を18頭中10番人気アイランドリバーで大外から強襲して通算100勝を達成するが、2着に18番人気のハグロウォリヤが入り、馬連は153通り中138番人気で、当時の馬連史上第2位となる17万7030円の大波乱となった[19] [20] [21]。
1993年に9勝[7]を挙げたのを最後に、1994年、1996年から2000年は1勝のみに終わり[7]、2000年10月29日の東京第5競走4歳以上500万下・タイパラダイスが最後の勝利[19]となった。
2001年7月14日の新潟第12競走3歳以上500万下・ショウエイアカツキ(13頭中13着)が中央最後の騎乗となり、2日後の同16日の盛岡第8競走フレンドリーカップ・セイフクサマー(12頭中9着)を最後に現役を引退[22]。
引退後は菅沼姓へ戻し、調教助手として森安弘厩舎・堀宣行厩舎に所属し、2023年に定年退職した。
定年後も補充員として調教に携わっている。
騎手としての実績よりも、後述するテレビ朝日の人気番組だった『さんまのナンでもダービー』への出演がよく知られていた。
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ナリタブラリアンの主戦騎手
1993年から1995年にかけて放送されたさんまのナンでもダービーでは、放送当時に三冠馬となったナリタブライアンにあやかって命名された芦毛のポニー「ナリタブラリアン」(1990年 - 2005年)の主戦騎手として出演した[1]。本家同様にシャドーロール(赤い物を使用、本家ブライアンは白い物)を付けた同馬は森安とのコンビで、ポニーのみならず、サラブレッドやアラブ種、道産子馬、ロバ、さらには人間、自転車などとの異種混合レースを戦った。
また森安の調教によって競走馬としての実力をつけていき、1995年のG1(ポニー競馬、番組独自のもの)レースでは秋・年末と連覇するなど、最強のポニーと呼ばれるまでに成長した。森安自身にとってもJRAで届かなかったGIのタイトルを獲らせたポニーである。森安はこの活躍によりJRAがイベントとして開催するポニー競馬に呼ばれることが多くなった。
森安とナリタブラリアンの対戦相手には東京優駿2着馬スダホーク(郷原洋司騎乗)のほか、騎手も小島太や的場均、加藤和宏、中舘英二、四位洋文、田中勝春、藤田伸二、アラン・ムンロ(イギリス)などのメンバーが揃っていた。ちなみに、後に加藤が森安から聞いた話では、森安は同番組で競走に使用するポニーの選定から騎手とのカップリングまでの一切を任されており、ライバル騎手に対しては「わざとうるさい馬を選んでいた」「特にG1を勝ってる乗り役が来た時は変な馬を選んだ」という[23]。
使用コースも特番では大井競馬場、それもナイター(放送時間の関係上ナイターとなった)を使った時もあった。またG1レースの解説には井崎脩五郎、実況は宇野和男(当時はラジオたんぱ、現在のラジオNIKKEIアナウンサー)、レースリポートは鈴木淑子が務めた。
3連覇が懸かった、第3回明石家優駿さんま記念ではソノダトップガンに敗れて結果は4着となった。これはブラリアンのハンデが100mと非常に重かった上、ソノダトップガンをはじめとした他のポニーにも本格的な調教が施されており、走りのレベル差がかなり縮まっていたことが要因である。
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騎手成績
おもな騎乗馬
- イチエイボーイ(1982年東京障害特別〈春〉)
- テイオージャ(1984年東京障害特別〈秋〉)
- ヒダカハヤト(1990年カブトヤマ記念)
- ナリタブラリアン(1993年1994年明石家優駿さんま記念)
脚注
関連項目
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