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スダホーク
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スダホーク(欧字名:Suda Hawk、1982年4月6日 - 2003年4月16日)は、日本の競走馬、種牡馬[1]。
![]() | この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。 |
主な勝ち鞍は、1985年の弥生賞(GIII)、1986年のアメリカジョッキークラブカップ(GII)、京都記念(GII)、1987年の阪神大賞典(GII)。
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生涯
要約
視点
デビューまで
アヤベジョーは、1973年に北海道新冠町の明和牧場で産まれた牝馬である[3]。祖母は1957年に牝馬二冠を果たしたミスオンワードであり、父はファーザーズイメージであった。また母父が気性難で有名なアポッスルであり、同様に気性難を受け継いだ[4]。競走馬として3歳から4歳にかけて7戦未勝利で引退し、繁殖牝馬となった[3]。1982年4月6日、北海道浦河町の山内静雄牧場にて4番仔の牡馬(後のスダホーク)が誕生する[5]。血統名はアヤベジョーの57といった[6]。
アヤベジョーの57は母と異なり、落ち着いた性格であった[6]。ただ、同じく山内牧場の同期6頭に紛れて、特に評価されていなかった[4]。山内牧場の娘婿である中村常夫は、牧場時代をこう回顧している。
2歳春、美浦トレーニングセンター所属の古山良司調教師と馬主の須田松夫を連れて牧場を視察し、アヤベジョーの57と対面した。須田は長距離競走を好み、それまで15頭所有していた馬の半分以上をステイヤー血統であった[6]。須田は、父がステイヤーのシーホークであることと古山の勧めで所有することが決定、800万円で購入した[6]。秋には古山厩舎に入厩した[6]。
競走馬時代
3-4歳(1984-85年)
1984年11月3日、東京競馬場の新馬戦(芝1800メートル)に田村正光が騎乗してデビューし、3着に敗れた。続く2戦目でクビ差を制して初勝利を挙げ、3戦目の葉牡丹賞(400万円以下)では逃げ切り2連勝とした[6]。1985年は2連敗の後、3月3日の弥生賞(GIII)に5番人気の評価で出走した[2]。第3コーナーで2番手につけ、最終コーナーで先頭に立ち独走。1番人気のサクラサニーオーに4馬身差で重賞勝利を果たした。須田にとっても所有馬初の重賞勝利であった[2]。続いて皐月賞に出走し、後方待機から抜け出すことができず6着に敗れた[2]。
5月26日、東京優駿(日本ダービー)に出走し、田原成貴に乗り替わった。皐月賞を制したミホシンザンが骨折のために回避し、代わって皐月賞出走できなかったシリウスシンボリが1番人気に推され、続く2番人気であった。スタートから後方待機し、第3コーナーで進路を内に取り、最終コーナーで先頭に並びかけた[2]。しかし、大外からシリウスシンボリにかわされ、ついていけなかった。シリウスシンボリに3馬身差遅れ、追い込んだスクラムダイナにハナ差だけ先着する2着となった[2]。田原はこう振り返っている。
秋は、神戸新聞杯、京都新聞杯とどちらも5着に敗れた後、11月10日の菊花賞に出走、スダホークは2番人気に推された[2]。東京優駿に出走できず、1番人気に推されたミホシンザンをマークしながら最終コーナーに達したが、ミホシンザンについていくことができなかった[2]。1馬身4分の1差離されて、サクラサニーオーよりクビ差だけ先着した2着であった。田原は「(前略)勝ち馬とは瞬発力の差が出てしまった[2]」と分析している。続く有馬記念では、シンボリルドルフ、ミホシンザン、ニシノライデンに次ぐ4着に入った。
5-7歳(1986-88年)
1986年は、アメリカジョッキークラブカップで始動。先行勢の後方から最終コーナーで2番手まで位置を上げ、直線で先頭に立つと後方に1馬身差で重賞2勝目となった。なお、走破タイム2分13秒2はレコードタイムであった[7]。田原は「(前略)今年はスダホークと心中しますよ[7]」と評するほどであった。続く京都記念では中団待機から直線に入り、先行するメジロヘンリーを4分の3馬身かわして重賞連勝、3勝目となった[7]。
サンケイ大阪杯では1番人気に推され、後方から追い上げるも、サクラユタカオーをアタマ差届かず2着。続く天皇賞(春)も単枠指定制度の対象となり、1番人気に推された。後方待機から第3コーナーで位置を上げたものの、後退して7着[7]。それから宝塚記念、毎日王冠、秋古馬三冠競走に出走したがいずれも敗退した。
1987年は、阪神大賞典ではマルブツファーストをアタマ差差し切り重賞4勝目となった[7]。続く天皇賞(春)ではミホシンザンに及ばず3着に敗れた。翌1988年も現役を続行し、宝塚記念では13頭立て8番人気であったが、追い込み3着に食い込んだ[7]。7月上旬、持病の裂蹄が悪化したため、競走馬を引退した[8]。
種牡馬時代
須田自身が所有し、日高軽種馬農協浦河種馬場で種牡馬になった[8]。1994年に引退し、乗馬に転向、門別町の日高オーシャンファームに移動した。1995年には『さんまのナンでもダービー』(テレビ朝日系)のレース企画に登場し元気な姿を見せたが(鞍上は郷原洋司)、レースは距離ハンデが厳しく4着(6頭立て)に敗れた。2003年4月16日、胃破裂のため死亡。
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競走成績
要約
視点
以下の内容は、netkeiba.com[9]およびJBISサーチ[10]の情報に基づく。
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血統表
スダホークの血統(エルバジェ系(ダークロナルド系) / Blue Peter5x4=9.38% ) | (血統表の出典) | |||
父 *シーホーク Sea Hawk 1963 芦毛 アイルランド |
父の父 Herbager1956 鹿毛 |
Vandale | Plassy | |
Vanille | ||||
Flagette | Escamillo | |||
Fidgette | ||||
父の母 Sea Nymph1957 芦毛 |
Free Man | Norseman | ||
Fantine | ||||
Sea Spray | Ocean Swell | |||
Pontoon | ||||
母 アヤベジョー 1973 鹿毛 |
*ファーザーズイメージ Fathers Image 1963 栗毛 |
Swaps | Khaled | |
Iron Reward | ||||
Cosmah | Cosmic Bomb | |||
Almahmoud | ||||
母の母 オンワードホール1966 鹿毛 |
*アポッスル | Blue Peter | ||
Bellani | ||||
ミスオンワード | Hard sauce | |||
*ホールドタイト F-No.5-h |
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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