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横山昌弘
静岡県出身の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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横山 昌弘(よこやま まさひろ、1935年2月27日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
静岡商業高では1952年にエース田所善治郎を擁し、中堅手として春の選抜に出場。準決勝は八尾高の木村保の好投に苦しむが辛勝。決勝では日野美澄のいた鳴門高を降し、田所が全試合完封勝利、静岡商を選抜初優勝に導いた[1]。同年夏は、山静大会準決勝でエース矢頭高雄を擁する都留高に敗退。他のチームメートに捕手の阿井利治がいた。
高校卒業後は、明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは3年生までに3度の優勝を経験するが、自身の活躍はなかった。しかし1956年秋季リーグでは打率.378(ベストテン3位)の好成績を残す。大学同期には佐々木重徳、田村満(いずれも中退)、関口一郎、荻孝雄がいた。
大学卒業後は、社会人野球の大昭和製紙に入社。1957年の都市対抗野球に三番打者として出場するが、2回戦(初戦)で全鐘紡に敗退[2]。同年秋にデトロイトで行われた第3回世界野球選手権に鈴木隆、古田昌幸らと日本代表として参加し、中心打者として優勝に貢献する。1958年の都市対抗にも連続出場するが、1回戦で丸善石油に敗れる[2]。同年の産業対抗では打撃賞を獲得した。
1959年に中日ドラゴンズに入団。1年目から一軍で起用され、主に中堅手として14試合に先発出場。翌1960年は左翼手に回り、主に二番打者として21試合に先発。しかし1961年には江藤慎一が外野手に回ったこともあり、出場機会が減少、同年限りで現役引退。
引退後は、中日新聞社記者を経て、中日球団フロントに入った。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 25 (1959年 - 1961年)
脚注
関連項目
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