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日野美澄

日本の野球選手 (1934-) ウィキペディアから

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日野 美澄(ひの よしずみ、1934年9月21日 - )は、徳島県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手

概要 基本情報, 国籍 ...

来歴・人物

鳴門高等学校では、同期のアンダースロー栗橋博(法大)とともに甲子園に4回出場。1950年夏の選手権に控え内野手としてベンチ入り、決勝まで進むが松山東高に敗退[1]1951年春の選抜では三塁手として決勝に進み、後に大学同期となるエース中田昌宏を擁する鳴尾高との接戦を制し優勝[2]。1年上のチームメートに遊撃手大久保英男がいた。同年夏は南四国大会準決勝で高知商に敗退。翌1952年春の選抜にも遊撃手として連続出場。この大会でも決勝に進むが、静岡商田所善治郎に完封を喫し準優勝にとどまる[2]。同年の夏の選手権は2回戦で松山商空谷泰に抑えられ敗退した[1]

卒業後は慶應義塾大学へ進学し、1年生の春から東京六大学野球リーグに出場。1954年春季リーグで打率.382の好成績をあげ首位打者を獲得。1956年秋季リーグは1年下のエース林薫、2年生左腕の巽一を擁し優勝を飾る。同季はベストナイン(遊撃手)にも選出された。リーグ通算90試合出場、306打数77安打、打率.252、0本塁打、36打点、11盗塁。中田以外の大学同期に衆樹資宏がいる。

1957年中日ドラゴンズに入団。1年目から一軍に上がり、内野手として10試合に起用される。6月20日には遊撃手、七番打者として初先発出場。翌1958年は29試合に出場。遊撃手、二塁手として5試合に先発するが、打撃成績は低迷し同年限りで現役引退。

引退後は社会人野球に転じ、大昭和製紙日本コロムビアで活躍した。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 14(1957年 - 1958年)

脚注

関連項目

外部リンク

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