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正親町実徳
幕末の公家、明治期の官僚・華族。正親町実光の三男。正親町家19代。正二位、権大納言 ウィキペディアから
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正親町 実徳(おおぎまち さねあつ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。通称・亀久麿[1]。
経歴
山城国京都で権大納言・正親町実光の三男として生まれる[1]。兄・公道の死去に伴い、文政元年6月13日(1818年7月15日)家督を継承[2]。文政7年12月16日(1825年2月3日)に元服し昇殿を許された[3]。左近衛権少将、右近衛権中将、参議、権中納言などを歴任し、安政6年4月3日(1859年5月5日)権大納言に任じられた[3]。
安政5年3月(1858年)、日米修好通商条約締結の勅許案を巡り、中山忠能・大炊御門家信・広幡忠礼・四辻公績・正親町三条実愛・三条西季知・日野資宗・庭田重胤・中院通富・橋本実麗・野宮定功・八条隆祐と共に、案文の変更を求めた[4]。元治元年7月19日(8月20日)の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止、他人面会・他行の禁止を命ぜられ、慶応3年1月(1867年)に赦免された[1]。
王政復古後、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与に就任[5]。その後、兼皇太后宮大夫、大宮祗候などを歴任し、明治2年7月27日(1869年9月3日)から明治3年12月12日(1871年2月1日)まで皇太后宮大夫を務めた[5]。
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栄典
親族
脚注
参考文献
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