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水間寺

大阪府貝塚市にある寺院 ウィキペディアから

水間寺map
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水間寺(みずまでら)は、大阪府貝塚市水間にある天台宗別格本山寺院山号は龍谷山。本尊聖観世音菩薩水間観音の通称で知られる。新西国三十三箇所第4番札所。「水間観音とその周辺」として大阪みどりの百選に選定されている[1]

概要 水間寺, 所在地 ...
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歴史

寺伝によれば、行基は病床の聖武天皇の命により、天皇の夢に現れたという観音菩薩を求めていた。そこに白鳥(しらとり)が現れて南西の方向に導かれた。その白鳥は和泉国で羽根だけを残し何処へともなく消え去り(この地は現・貝塚市鳥羽だという)、彷徨いながら北東の方向へ進んで行くと、16人の童子(観音菩薩の化身)に遭遇した(この地は現・貝塚市清児といい、稚児塚の伝承地が現存する)。その童子に案内されると2つの川が合流する「水間」の地に着き誘われた。行基は滝に向かうとそこに竜神が現れ、一寸八分(約6センチメートル)の閻浮陀金の聖観音像を授けられた、と伝わっている。その滝は現在の本堂の裏を流れる秬谷川にあったらしく、現在は岸辺に設置されたフェンスに「聖観音菩薩出現の滝」と墨でかかれたボードが設置されている。そして、行基はこの聖観音像を聖武天皇に捧げたところ、天皇の病は全快した。天皇は、この仏像を現地に祀るようにとの勅命を行基に下すと、天平16年(744年)に行基によってこの地に堂宇が建立された、これが当寺の始まりであるという[2]

建久元年(1190年)に七堂伽藍が完成する[2]

天正13年(1585年)に梵鐘が貝塚本願寺(現・願泉寺)に売却されている[2]。当寺は中世より武家による手厚い保護を受けてきたが、羽柴秀吉による紀州征伐の際には根来寺に与したために、同年に堀秀政の軍勢に攻められて焼失した[2]

文禄5年(1596年)に岸和田城小出秀政によって本堂が再建されている[2]

寛文元年(1661年)に三重塔が再建されている[2]

元禄元年(1688年)に刊行された井原西鶴の『日本永代蔵』の第1話「初午は乗て来る仕合」に「泉州水間寺利生の銭」と記されたことで全国的に知られるようになった[2]。その後、岸和田藩岡部氏 の帰依を受けて元禄年間(1688年 - 1704年)には諸堂宇も再建された。

天明4年(1784年)に火災にあって本堂以下が焼失したが、文政10年(1827年)に岸和田藩主岡部長慎により本堂が再建され[2]天保5年(1834年)には三重塔が再建されている[2]

1925年大正14年)には参拝客を運ぶための水間鉄道水間線が開通している。

1977年昭和52年)に天台宗の別格本山に昇格する[2]

近年、行基菩薩を聖観音像が待つ「降臨の滝」まで導いた十六童子に因み、水間鉄道清児駅を起点に水間観音駅から「水間寺境内」までの間の「厄除け街道」に、障がい者支援施設「土の子陶房」で制作された焼物の「厄除け十六童子・脇導師」一対ずつが16箇所に設置され、参詣者の新しい楽しみとなっている。

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境内

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文化財

貝塚市指定有形文化財

  • 本堂 附:棟札[3]
  • 三重塔[3]
  • 行基堂[3]
  • 弁財天宮殿[3]

貝塚市指定無形民俗文化財

  • 水間千本搗餅つき(水間千本搗餅つき若中保存会)[3]

前後の札所

新西国三十三箇所
3 鶴満寺 - 4 水間寺 - 5 道成寺
和泉西国三十三箇所
25 孝恩寺 - 26 水間寺 - 27 吉祥園寺
南海沿線七福神弁財天
神仏霊場巡拝の道
52 施福寺 - 53 水間寺 - 54 七宝瀧寺

所在地

  • 大阪府貝塚市水間638

アクセス

脚注

関連項目

外部リンク

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