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沖縄切手
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沖縄切手(おきなわきって)は、アメリカ軍統治下の沖縄で使用された切手。琉球切手(りゅうきゅうきって)とも呼ぶが、後述するように沖縄切手と琉球切手[1]を別の意味で使うこともある。日本郵政公社が使用する「琉球切手」という語は広義の意味を持つ。一部の例外を除き、沖縄切手は日本の大蔵省印刷局(現在の国立印刷局)が印刷していた。
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沖縄返還後の1972年6月3日をもって効力が停止されており[2]、切手趣味の分野では「デッド・カントリー」(既に存在しない国家・政体等が発行したもの)に区分される。
定義
広義の沖縄切手(琉球切手)
1945年のアメリカ軍の沖縄占領から1972年5月14日の本土復帰前日までに琉球で発行された切手を指す[注 1]。「琉球郵便」という文字が入っている。
狭義の沖縄切手
狭義の琉球切手
1953年7月1日から1972年5月14日まで、琉球政府の郵政局(後に琉球郵政庁)が発行した切手[3]。初期のものはB円建てで[1][5]、後期のものはドル(セント)建ての金額表示がある。1972年6月3日限りで使用が禁止された[注 2]。それ以降の手持ち切手は6月30日までは県内全郵便局、8月31日まで那覇、沖縄宮古、八重山の各郵便局で日本切手と交換された。
備考
全世界の切手収集家に広く使われているスコットカタログ(Scott catalogue)では沖縄切手をアメリカ切手の一部として掲載している(目次では"Ryukyu Islands ")。
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概要
要約
視点
沖縄戦直後の切手
1945年6月23日に沖縄戦終結した後の沖縄県は、鹿児島県所属であった奄美群島などを加え、4つの地区に分割統治された。沖縄本島では、沖縄諮詢会が通信部を設置し、9月から無料で郵便の取り扱いを再開した。1946年10月からは郵便事業が有料となったが、切手の代わりに料金収納印が代用された。旧宮古支庁では、宮古群島郵便局が12月から在庫があった戦前の切手を用いて郵便事業を再開し、宮古民政府通信部が発足した1946年2月からは通信部長の認印を押したものが使われた[6]。このように、沖縄戦直後の沖縄では戦前の切手の在庫に各群島の民政府通信部長の私印や検印を押したものが使われた[9]。判を押したのは、一般人が持っていた在庫の切手と区別するためである。末期には日本からわざわざ新品の切手を取り寄せ、これに印を押したものもある。このため種類は非常に多いが、現存するものは少ない。なお、久米島では郵便局長が米軍の許可を得て謄写版などで独自に印刷した切手(久米島切手)がある。
沖縄切手の発行
1948年7月1日から、独自デザインと「琉球郵便」表示による切手が発行されるようになった[11]。4種類のB円によるもので、各群島政府に配布された[6]。1951年に4つの群島政府をまとめて琉球臨時政府を置くと、郵便事業をまとめる琉球郵政庁を設立、1952年4月1日に琉球政府が成立すると、郵便は琉球政府の管轄となり、その後は「琉球郵便」の文字の入った[注 3]琉球切手が発行された[1][12]。
1958年にB円が廃止され、通貨が米ドルに変更されると琉球切手もドル表記となり、大半が3セントまたは1.5セント[注 4]で発行された。
琉球切手の意匠は、スタンプや官製葉書を含め、大半が沖縄在住の画家やデザイナーにより作られた[6]。沖縄独自の文化を反映したデザインであることから、年が経つにつれて人気が高まり[15][18][21]、外貨獲得にも大きな役割を果たした[6]。
使用停止と沖縄切手の投機
しかし、沖縄県の復帰に伴い1972年6月3日で使用が停止された。最後に発行されるゆしびんの5セント切手が発行される4月20日には、前日から郵便局前に購入を待つ者が徹夜で殺到する事態となった[6]。復帰までに発行された沖縄切手は改訂版を含む259種に上る(普通・記念228種、航空30種、速達1種。不発行3種は除く)。
1971年から1973年にかけて「復帰により今後発行されなくなる」「沖縄切手は日本本土復帰によって日本切手になる」「沖縄切手は日本本土の切手に比べて発行枚数が少ないので値上がりは必至である」と本土の一部業者が煽り、投機目的[22]で新規発行される切手を求めて大行列ができるなど社会現象化した[6][23]。ついには郵便局の前に本土からの買付業者が群がり、正価の3倍もの値段で買い取っていったケースもあった。背景には、1971年12月に琉球郵政庁が「本土復帰による混乱を避ける」ことを名目に、沖縄以外の収集家や切手商に対して行っていた新発行の切手の通信販売を打切り、1972年発行分の切手には直接沖縄の郵便局の窓口に行かなければ切手を購入出来ない事態が生じたためであった。この事態に対し、地元沖縄の切手収集団体である琉球郵趣会は抗議し、改善策も示したが、琉球郵政庁はこれを完全に無視した。こうして集められた切手は本土の百貨店等で販売され[注 5]、実態とかけ離れた高額な値段で取り引きされた[24]。たとえば1958年の「守礼門復元記念」切手は額面200円だが10枚シート1万円超の売価をつけ、切手投機業者の手で販売されていた。全盛期には投機をあおる本なども多数出版され、数名の知名度のある切手収集家が切手投機業者に雇われ、「切手評論家」「切手コンサルタント」を名乗り、沖縄切手の高騰の「裏付け」を行った。また、沖縄切手の高騰を仕掛けた切手投機業者を中心とした一部の切手商によるグループ「全日本切手商協会」を結成。沖縄切手のみならず、一部の日本切手や彼らによって作成される初日カバーの投機も行っていた。これに対し、日本最大の切手収集団体である日本郵趣協会は1972年4月頃に「異常な沖縄切手投機に警告する」という声明を出し、沖縄切手投機に反対する姿勢を取った。その理由には、沖縄切手といった「デッド・カントリー」切手に区分される切手は新切手が発行されなくなることで、収集家から集められなくなり市場価格が低下するのが実情であるが、現在の沖縄切手の高騰は投機業者が仕組んた架空のものであり、必ず暴落することが背景にあった。対策として、収集家予備軍であるジュニア層が切手投機に巻き込まれているとして、ジュニア層向けの切手誌を創刊したり、「守礼門復元記念」切手の原寸大の模造品を作成して無料配布を行った。また、切手商の業界団体である全日本郵便切手商組合は自身で発行する切手カタログで「守礼門復元記念」切手を200円と表記するなど、すべての沖縄切手に対し実態に基づいた評価額を示した。これに対し、切手評論家の一人は、切手商組合製のカタログの守礼門切手の評価について、当時複数の新聞に持っていた自らの切手関連のコラムで「組合加盟の切手商でも200円で売る店は存在しないインチキな評価額」という記事を数回に渡って書き続け、これに激怒した切手商組合から名誉毀損などで告訴された。1973年5月に読売新聞によって「ネズミ講切手版」という記事が掲載されたことで沖縄切手の投機の実態が報じられた。切手投機業者は主催する百貨店での即売会の会場をことあるごとに変えることで、沖縄切手の高騰を繰り返し仕掛けたことや、「沖縄切手を買い戻す意志はない」と返答した。また、沖縄切手の高騰を信じた者たちにより換金の動きが起こり、これに慌てた切手投機業者は「沖縄切手市場が閉鎖された」として換金を阻止したことで大暴落し、損失を抱える者が続出した[6]。それらの中にはお年玉を使い果たした小学生や、家の現金20万円を盗んだ子供が沖縄切手を買い集め、換金しようとしたらその半額以下にしかならなかったケースなどもおり、また、損失を抱えた者の中に自殺者や、多額の借金を抱えて借金元に殺害される事件が起こるなど社会問題となった[要出典]。また、多数の切手商と取引のあったある切手の卸売業者は、沖縄切手のオークションを開き、同社の社長が怒鳴り声を上げながらその場の空気を煽ったが、逆に入札価格を下げるという異様なオークションとなった。沖縄切手の暴落後、切手投機業者は巻き返しを図り、投機反対の立場を撮っていた日本郵趣協会へのバッシングを行った。ある夕刊紙に「郵趣協会は健全な切手趣味を普及し、本拠地である郵趣会館(1969年〜1996年に渋谷区代々木に所在)は切手収集家のために建てられたのに、設立者であり理事長とその一族によって私物化されている」という記事を書かせたり、ある切手コンサルタントは切手投機業者の機関紙で「郵趣協会は中国が発行したパンダ切手で暴利を貪っている」「郵趣協会の会費は同協会が出版する切手誌の年間購読料でしかない」と難癖をつけた。日本郵趣協会の切手誌「郵趣」1973年12月号の投書欄に、投機業者の仲間を名乗る匿名の人物が「切手投機業者は手先の人間を複数郵趣協会の会員にして潜り込ませて撹乱工作を行っている」という投書と関連する資料を寄越した。また、個々の郵趣協会会員に対して、前述の夕刊紙や投機業者によるバッシングの記事のコピーをジュニア層の会員を中心に郵送して、日本郵趣協会に反感を持たせようとする嫌がらせを行った。これらのバッシングに対して、当時の日本郵趣協会理事長の水原明窓は「一言でも反論すれば、自分たちまでも下劣な投機業者と同じレベルになってしまう」と一切の反論を行わなかった。他には「現在、切手収集界では同業者同士で中傷合戦が行われているが、ここは皆が一つのテーブルに集まって問題解決を行うべきだ」と主張したり、1975年には、現存数一枚、世界で最も高価な「英領ギアナ1セント切手」日本初公開を掲げた「万国切手博覧会」という即売会形式のイベントを都内の百貨店で開催した。沖縄切手に関しては、全盛期ほどではないが、引き続き架空の値段のつり上げを行った。しかし、これらの切手投機業者による巻き返し策はいずれも不調に終わり、1970年代後期になると切手収集の人気は下がり、沖縄切手の高騰を仕掛けた切手投機業者は1980年頃に倒産した。
なお、一時は正価とかけ離れたこれらの切手(未使用品)は現在、正常な評価額に戻っているが、一方で当時の使用実態がよく分かる使用済み切手の人気が高まっていることから、その一部に消印の偽造等が発見されている[要出典]。
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記念切手一覧

シリーズ切手一覧
- 文化財シリーズ(建造物)
- 文化財シリーズ(工芸品)
- 民族舞踊シリーズ
- やなぎ節(5円) - 1956年5月1日発行。1960年8月3日に額面を14セントに改訂。
- むんじゅる(8円) - 1956年5月1日発行。
- ななみちき(14円) - 1956年5月1日発行。1960年8月3日に額面を27セントに改訂。
- 動植物シリーズ(第一次と第二次では『琉球郵便』の文字の大きさが異なる。)
- 民族舞踊切手(1961.9.1以降の版には英字が追加された。)
- むんじゅる(1セント) - 1960年11月1日発行。1961年12月5日英字入発行。
- ぬふわ節(2+1/2セント) - 1960年11月1日発行。1962年6月20日英字入発行。
- はとま節(5セント) - 1960年11月1日発行。1962年6月20日英字入発行。
- はなふう(10セント) - 1960年11月1日発行。1962年6月20日英字入発行。
- 伊野波節(ぬふあぶし、ぬふわ節の色違い)(4セント) - 1971年11月1日発行。
- しゅどうん(20セント) - 1964年1月20日発行。
- しのび(25セント) - 1962年2月1日発行。
- 上り口説(50セント) - 1961年9月1日発行。
- こてい節(1ドル) - 1961年9月1日発行。
- 花切手(1962.6.1- 発行)
- 空手シリーズ
- 亀シリーズ
- セマルハコガメ(3セント) - 1965年10月20日発行。
- タイマイ(3セント) - 1966年1月20日発行。
- リュウキュウヤマガメ(3セント) - 1966年4月20日発行。
- 天然記念物シリーズ
- 熱帯魚シリーズ
- ハマクマノミ(3セント) - 1966年12月20日発行。
- ハコフグ(3セント) - 1967年1月10日発行。
- フエヤッコ(3セント) - 1967年4月10日発行。
- モンガラカワハギ(3セント) - 1967年5月25日発行。
- セグロチョウチョウウオ(3セント) - 1967年6月10日発行。
- 貝シリーズ
- 蟹シリーズ
- ミナミコメツキガニ(3セント) - 1968年10月10日発行。
- リュウキュウシオマネキ(3セント) - 1969年2月5日発行。
- ヤクジャマガニ(3セント) - 1969年3月5日発行。
- ギターサオカガニ(3セント) - 1969年5月15日発行。
- ツノメガニ(3セント) - 1969年6月2日発行。
- 民俗行事シリーズ
- 組踊シリーズ
- 執心鐘入(3セント) - 1970年4月28日発行。
- 人盗人(3セント) - 1970年5月29日発行。
- 銘苅子(3セント) - 1970年6月30日発行。
- 二童敵討(3セント) - 1970年7月30日発行。
- 孝行の巻(3セント) - 1970年8月25日発行。
- 偉人シリーズ
- 民具シリーズ
- ジバタ(3セント) - 1971年2月16日発行。
- ヤーマ(3セント) - 1971年3月16日発行。
- シュルンヌとクバカサ(3セント) - 1971年4月30日発行。
- シリウーシ(3セント) - 1971年5月20日発行。
- 海フジョウとユートイ(3セント) - 1971年6月15日発行。
- 政府立公園シリーズ
- 海洋シリーズ
- 夕日と鳥(5セント) - 1972年3月21日発行。
- 珊瑚礁(5セント) - 1972年3月30日発行。
- 海鳥と島(5セント) - 1972年4月14日発行。
不発行となった記念切手
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関連切手
最初の琉球切手発行から50年に当たる1998年には、郵政省から琉球切手をあしらったふるさと切手が発行された。最初に発行されたソテツ5銭切手と最後に発行されたゆしびん5セント切手があしらわれた2種類があり、「琉球切手50周年」と書かれている[6][25]。
脚注
参考文献
関連項目
関連資料
外部リンク
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