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沢藤光郎
日本の野球選手 (1919-1987) ウィキペディアから
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沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1987年12月5日[1])は、岩手県出身のプロ野球選手(投手)。
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経歴
盛岡商業学校時代の1936年、夏の甲子園にエースとして出場するも[2]、初戦で全国制覇した岐阜商業学校に大敗した。
高校卒業後は、日本製鐵釜石へ進み、盛岡鉄道管理局へ移籍するとエースとして活躍。1948年の全国鉄道大会では優勝に貢献した[2]。
1950年に創設したばかりの近鉄に入団した[2]。チーム公式戦の第2戦、1950年3月13日の対南海戦に先発完投勝利を挙げ、これが球団および自身の公式戦初勝利となる[2]。この年は50試合に登板、チーム最多の18勝をマークするも、チーム自体は首位毎日から37.5ゲーム差の最下位だった。翌年以降も関根潤三・武智文雄らと共に、初期のチームを支えた。チームは低迷期にあり1951年、1952年は16敗、22敗といずれもリーグ最多敗戦を喫している[2](1リーグ制を含めてNPBで初めて二年連続のリーグ敗戦投手である)。しかし1954年は14勝2敗の好成績を上げ、関根・武智らと共に球団初のAクラス入りに貢献した。1957年限りで現役を引退[1]。
引退後は、1958年から1969年までコーチとなり、それ以降もスコアラーを勤めた[1]。1975年後期に近鉄が「初優勝」(プレーオフに敗れたためリーグ優勝とはならなかった)を遂げたときには、ネット裏で直立不動で涙を流して喜んでいた[2]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- その他の記録
- 開幕から10連敗:1952年 ※史上4人目
背番号
- 17 (1950年 - 1957年)
- 50 (1958年 - 1961年)
- 57 (1962年 - 1966年)
- 67 (1967年 - 1969年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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