トップQs
タイムライン
チャット
視点
瀬戸輝信
日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
Remove ads
瀬戸 輝信(せと てるのぶ、1969年3月25日 - )は、福岡県福岡市城南区出身の元プロ野球選手(捕手)。
Remove ads
経歴
プロ入りまで
少年野球の金山チャレンジャーズで野球を始めた[1]。福岡大大濠高校では3年春のセンバツで1回戦敗退。高校卒業後は、法政大学に進み、2年生の春には1学年上の葛西稔とバッテリーを組んでリーグ優勝に貢献し、ともにベストナインに選出された[2]。同年は日米大学野球の代表にも選ばれ、秋のリーグ戦では満票でベストナインを受賞した[3]。3年生の1989年と4年生の1990年も日米大学野球の代表に選出され、4年秋には2年ぶりにベストナインを受賞。東京六大学では通算70試合に出場し、236打数77安打、打率.326、3本塁打、34打点の成績を残した。
現役時代
1990年のプロ野球ドラフト会議で小池秀郎の外れ1位で広島東洋カープから指名を受ける。球団史上最高の契約金7,500万円、年俸720万円(いずれも推定)という好条件で入団した[4]。当時の山本浩二監督は大学先輩であり、強肩でリードも良い大学No.1捕手として球団からは即戦力の期待をかけられていた[5]。前々年まで高橋慶彦が着けていた背番号2となる[6]。
1991年はオープン戦終盤でファウルボールを打った際に右手小指を骨折して手術を受けている[7]。同年はジュニア日本選手権で優秀選手賞を受賞した[8]。1992年は同年で引退することになる[9]達川光男の後継者として期待がかけられた[10]が、入団当初から指摘されていたパスボール癖が治らなかったことや[11]打撃面での苦戦により、西山秀二らとのポジション争いに敗れ、正捕手にはなれなかった。
1995年キャンプイン直後に引退を申し出たが球団に説得されて撤回した[12]。このシーズンは西山の故障の影響もあり三村敏之監督に積極的に起用されて78試合に出場し、オフには年俸が1,100万円増の2,400万円(推定)となっている[13]。1998年は再度故障で長期離脱した西山に代わり正捕手をつとめて自己最多の120試合に出場し、年俸が3,500万円(推定)まで増加した[14]。
1999年は右の代打の切り札として、シーズン終盤まで打率3割をマークした。木村一喜や石原慶幸、倉義和が一軍に定着するようになったが西山に次ぐ二番手捕手として起用[15]。2001年には1試合5安打を記録するなど勝負強い打撃でチームに貢献した。2004年からコーチ兼任となり、同年シーズン終了後に引退した。
現役引退後
2005年からは一軍バッテリーコーチに就任。2006年には二軍バッテリーコーチを務めた。同年オフに退団。現在は呉市で「瀬戸輝信の野球院」を設立し少年野球のインストラクターを務めている。
Remove ads
エピソード
- 1998年の横浜戦において、ファウルボールを捕球しようとした際にネクストバッターズサークルに置いてあったスプレーを踏みつけたことでスプレーが噴射し、白煙にまみれながら捕球した姿が「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」において取り上げられた。
詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
- 2 (1991年 - 1995年)
- 28 (1996年 - 2004年)
- 84 (2005年 - 2006年)
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads