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王湖伊津男
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王湖 伊津男(おうこ いつお、1956年8月17日 - 2013年4月24日)は、北海道釧路市出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は鈴木 伊津男(すずき いつお)。最高位は東前頭14枚目(1982年7月場所)。現役時代の体格は179cm、154kg。得意手は左四つ、寄り。
引退後は長く、世話人として友綱部屋の後輩達の指導に当たった。
来歴・人物
地元・釧路市の春採中学校では、柔道で鳴らした。2年生の時、近所の風呂屋の主人(工藤東一)から角界入りを勧められ、直ちに上京。同郷の元小結・巴潟が率いる友綱部屋に入門し、1970年9月、14歳で初土俵を踏んだ。同期の初土俵には、後の横綱・千代の富士がいる。
なお、当初の四股名は、本名に因んだ「鈴木山」であった。
押し相撲に徹しきれなかったため出世のスピードは遅く、序ノ口に付いてから10年以上を経て、1981年3月場所で漸く十両に昇進。その間、1979年1月場所では6勝1敗の成績にて、玉龍・蜂矢・大徹・満山(後の嗣子鵬)らとの決定戦の末幕下優勝を遂げている。
1982年7月場所では新入幕を果たしたが、糖尿病を発症し大きな体を生かした持ち前の取り口が幕内では通じず、3勝12敗と大きく負け越して1場所で十両へと逆戻り。幕内は結局、この1場所しか務まらなかった。
以降は、糖尿病に罹った事もあり振るわず、一気に幕下まで急降下。一度十両に復帰したが靭帯を損傷し再び陥落。
現役晩年は幕下下位まで番付を落とし、1985年11月場所後、29歳で引退した。
引退後は世話人へと転身したが、元幕内力士が世話人になったのは、王湖が初めての例である。
世話人として長らく友綱部屋で後進を指導。稽古場、力士の日常生活、後援者の会合まで、兄弟子の友綱の片腕として活躍していたが[1]、2013年3月場所後に体調を崩して入院。同年4月24日、肺炎のため、入院先の病院で死去した。56歳没[2]。
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その他
- 新入幕の1982年7月場所は序盤より不振で15日間の対戦中十両力士が過半数の8人であった。幕内力士の対戦は十両5枚目以上が通例だが、十両6枚目の青葉山、榛名富士、7枚目の大飛との対戦もあった。13日目終了時点で1勝12敗だったが14日目、千秋楽と連勝し3勝で終えた。3勝とも十両力士からの勝ち星だった。なお入幕前の5月場所に栃剣と幕内で対戦し勝利している。幕内を15日皆勤して幕内力士から1勝も挙げられなかった力士は王湖が唯一である。
- 後姿が北の湖に似ているとも言われた。
- 姓名判断に興味を持っていた先代師匠が3つの四股名を提案し、王湖を選択した。因みにその場に同席していた西錦は四股名に拘りが無いため3つの候補から適当に「魁輝」を選んだ[1]。
- ヤンチャな性格で部屋の魁輝とは好対照を描いていたが、魁輝は意外と気は合ったと後に振り返っている[1]。
主な戦績
- 通算成績:341勝330敗20休 勝率.508
- 現役在位:91場所
- 幕内成績:3勝12敗 勝率.200
- 幕内在位:1場所
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回(1979年1月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
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改名歴
- 鈴木山 伊津男(すずきやま いつお、1970年11月場所-1976年3月場所)
- 王湖 伊津男(おうこ -、1976年5月場所-1985年11月場所)
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第4巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社、1993年)
脚注
関連項目
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