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天ノ山静雄
日本の力士 (1953-1997) ウィキペディアから
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天ノ山 靜雄(あまのやま しずお、1953年12月28日(戸籍上は1954年1月1日) - 1997年9月17日)は、佐賀県小城郡多久村(現在の多久市)出身で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は尾形 靜雄(おがた しずお)。身長191cm、体重179kg。得意手は突き、押し。最高位は西前頭筆頭(1980年7月場所、1982年5月場所)[1]。
来歴
多久市立西渓中学校で柔道を始めたが、既に身長が184cm、体重が100kgに達していたので、相撲部から強引な形で多久市大会や佐賀県大会に出場させられて優勝はしたが、人に廻し姿を見せるのが嫌だったことと強引に相撲を取らせた周囲への反発から余計に相撲が嫌いになった。将来は力士になるとは全く考えておらず、教師か県庁員を志していた。 佐賀県立多久工業高校在学中は柔道部に所属していたが、2年生の時にたまたま出場した相撲大会で活躍したため、高校卒業後は駒澤大学へ進学し相撲部に入った。大学3年生の時に全国学生相撲選手権大会に優勝して学生横綱となり、連覇を狙った4年生では惜しくも準優勝に終わった。そのため多くの相撲部屋から勧誘されたが、学生時代に後の幕内・谷嵐の父親に世話になっていた縁で、彼がいた時津風部屋へ入門した[1][2]。
1976年3月場所、幕下付出で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同一の「尾形」。以来順調に出世し、1977年9月場所で新十両に昇進した。新入幕を果たした1978年3月場所では、大関・貴乃花を倒すなど11勝4敗という好成績を挙げて、生涯唯一の三賞となった敢闘賞を受賞している。巨体と出足を生かしたもろ手突きで押す相撲を得意とし、いずれ三役で活躍すると期待されたが、下半身の脆さ(解説者の玉ノ海からはよく「基礎工事がなっていない高層建築物」に例えられて酷評された)が解消されないまま結局前頭筆頭止まりに終わった[1]。
現役晩年は幕下中位まで番付を落とし、1986年11月場所を最後に32歳で引退[1]。
引退後は年寄・立田山を襲名し、時津風部屋付きの親方となった。その後は、NHK大相撲中継の向正面解説にも顔を見せたりしていたが、脳出血のため1か月近く闘病したのち、1997年9月に43歳で死去した。
引退時、思い出に残る一番として、横綱・北の湖と初めて対戦し敗れた取組を挙げた。なお、北の湖との幕内での対戦成績は9戦全敗であった。また調子が出ず負けが込んでいた場所、支度部屋で北の湖から「どうしたんだ、元気がないじゃないか」と直接声を掛けられたことがあった。その際、「横綱が一平幕力士に過ぎない自身の相撲にまで目を配り、気遣ってくれていたことを知り大変感激した」と述べている。
その巨体から「ジャンボ」と呼ばれ、同じ1978年3月場所で新入幕を果たし、「コンコルド」と呼ばれた琴若(最高位・前頭2枚目)と共に旅客機に由来したニックネームが付けられていた。
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主な成績・記録
- 通算成績:400勝411敗7休 勝率.493
- 幕内成績:198勝252敗 勝率.440
- 現役在位:65場所
- 幕内在位:30場所
- 三賞:1回
- 敢闘賞:1回(1978年3月場所)
- 金星:2個(若乃花1個、三重ノ海1個)[1]
- 連続出場:811回(1976年3月場所-1986年9月場所)
- 各段優勝
- 幕下優勝:3回(1976年9月場所・1977年7月場所・1985年7月場所)
場所別成績
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幕内対戦成績
改名歴
年寄変遷
- 立田山 靜雄(たつたやま しずお)1986年11月-1997年9月
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第4巻』(著者:佐竹義惇、ベースボール・マガジン社刊、1993年)
脚注
関連項目
外部リンク
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