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田村忠義
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田村 忠義(たむら ただよし、1948年(昭和23年)5月26日 - 2024年(令和6年)9月22日[1)は、広島県出身の元アマチュア野球選手(投手)。
来歴・人物
広陵高校[1]では、同期の清水由則(日本鋼管 - 日本鋼管福山)と投の二本柱を組み、1965年秋季中国大会に出場。準決勝に進むが米子東高に敗れ春の選抜出場を逸する。翌1966年夏も県予選で敗退。他の同期に捕手の須山成二、1年下に外野手の河井昭司がいる。
清水(野手に転向)とともに1967年に日本鋼管に入社、1970年に創部された地元の日本鋼管福山に移る。日本鋼管福山ではフォームを変えて技巧派サイドハンド[2]として活躍[3]。1974年の社会人野球日本選手権では決勝に進むが、三協精機の大塚喜代美に1安打完封を喫し、準優勝にとどまる[4]。同大会の敢闘賞を獲得。1980年の社会人野球日本選手権でも決勝に進み、日本楽器を抑え4-2で完投勝利、初優勝を飾った[5]。同大会では最高殊勲選手に選出され、同年の社会人ベストナイン(投手)となる。1982年の都市対抗でも決勝に進み、住友金属の石井毅と投げ合うが4-5で惜敗、準優勝にとどまる[6]。同大会の久慈賞を獲得し、10年連続出場選手として表彰を受ける。
1974年のドラフト会議で太平洋クラブライオンズから1位指名を受けたがこれを拒否[7][8][9]。また、翌年のドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名を受けたがこれもまた拒否[9][10]。拒否の理由は最初の指名時で既に26歳の年齢であったからだという[11]。
1975年のインターコンチネンタルカップ、1976年、1980年のアマチュア野球世界選手権日本代表に選出されている。
1983年に選手引退後は社業に就いた後、NKKとなったチームでコーチ、環太平洋大学や広陵高校で監督を務めた。NKKでは舩木聖士、星野順治、環太平洋大学では、又吉克樹(中日)を、広陵高校では西村健太朗(元巨人)などを指導した[9]。
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脚注
関連項目
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