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畠山みどり
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畠山 みどり(はたけやま みどり、1939年4月5日 - )は日本の演歌歌手。本名は千秋 みどり(せんしゅう みどり)。北海道士別高等学校卒業。
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来歴
北海道稚内市出身。北海道士別高校卒業後、デザイナーを志し上京し文化服装学院に入学するも、幼少時からの歌手の夢が棄て難く退学。古賀政男ギター学院へ入学し、レッスンに励む。一時は練習生として大橋節夫とハニー・アイランダースでハワイアンを歌っていた。
1960年、素人のど自慢番組『トップライトショウ』(ニッポン放送)で優勝したことでレコード会社の関係者の目に入り、日本コロムビアに入社。入社後1年4ヶ月間、船村徹のもとでレッスンに通うかたわら、島倉千代子らコロムビアの看板歌手の前座を務めたのち、1962年に「恋は神代の昔から」でデビュー。袴を履いた巫女姿の歌謡浪曲路線で、その名が全国に知れわたる[1]。続いて「出世街道」も大ヒットし、1963年には第14回NHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には計3回出場している(詳細は下記参照)。
1965年、千秋与四夫(当時フジテレビディレクター)と結婚。同年長男を出産。
昭和40年代からはタレント/実業家としての活躍が目立ち、1970年にはベストセラーになった弘田三枝子のダイエット本「ミコのカロリーBook」に触発され出版した「みどりの6時間絶食法」、1975年には紅茶キノコ健康法が脚光を浴びる。1983年には「ポカポカあたためてグングンやせる」が50万部のベストセラーとなる。バブル期には株に手を出し、大成功を収めていたものの、バブル崩壊と共に55億5000万円の借金を背負う。
1995年には「ASAYAN」に『小室哲哉に曲を書いて欲しい』と出演したことが話題を呼ぶ。翌年には「金曜テレビの星」でバンジージャンプに挑戦したことも話題となり、一時バラエティに引っ張りだこになった。
現在は借金も完済し、歌手業に専念している。
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人物
- バブル景気の頃は演歌界きっての株トレーダーとして知られていた。バブル全盛期の時には47億円儲けていたが、バブル崩壊により莫大な借金が残った。以来「もう一切株などの投資はしない」と誓い、趣味のゴルフも止めた。その借金騒動の際には「自己破産だけはしたくない」「あの千昌夫だって頑張っている、私が負けるわけにはいかない」と奮起し、精力的に活動。バラエティ番組にも進出し、借金返済のため駆けまわった。
- 芸能界きっての健康マニアとしても知られ、関連した著作や講演も多い。
- 青田典子の元夫は甥にあたる。
- 村田英雄の代表曲である「夫婦春秋」は最初は畠山のシングル曲であり、吹き込みも行われたが担当ディレクターの「こういう歌にはまだ早い」という判断でお蔵入りとなり、村田側へ回された。畠山版は後年シングル化されている。
- 8社競作となった『東京五輪音頭』(1963年)・日本コロムビア版では、当時在籍していた北島三郎とのデュエットを披露している。
- 水前寺清子のデビュー曲「涙を抱いた渡り鳥」は、畠山のクラウン移籍第1弾シングル曲「袴を履いた渡り鳥」として用意されていたが、コロムビア関係者必死の説得で移籍が取り止めになったため、作詞の星野哲郎の推薦で急遽水前寺に歌わせたものである。水前寺をデビュー当時から可愛がり、水前寺も畠山を「お姉さん」と呼び慕っている。
- かつて住んでいた東京都世田谷区の邸宅は、1967年にプロレスラーのアントニオ猪木が私邸として購入し、1972年に猪木が新日本プロレスを旗揚げした際に新日本プロレス道場兼選手合宿所に改造して現在に至っている[2]。
- 美空ひばりの妹分でプライベートでも「お姉ちゃま」「みどり」と呼び合う仲であった。頻繁に互いの自宅へ行き来して飲食したり、中村メイコらひばりと親交のあった友人や関係者と飲食を楽しんだり、ひばりのお供で一緒に外出先などへ付いていくなど普段から行動を共にしていた。畠山のステージにひばりノーギャラで特別出演したり、ひばりからステージ衣装を進呈されたりしている。
- キャラクターシャンプーボトルのコレクターでもある。
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ディスコグラフィ
シングル
デュエット・シングル
企画シングル
アルバム
タイアップ曲
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出演
CM
NHK紅白歌合戦出場歴
著書
- 畠山みどりのポカポカあたためて奇跡の元気!-「冷え取り健康美容法」は究極の健康法だった ISBN 9784759306859
脚注
外部リンク
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