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弘田三枝子
日本の女性歌手 (1947-2020) ウィキペディアから
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弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子〈たけなが みえこ〉、1947年〈昭和22年〉2月5日 - 2020年〈令和2年〉7月21日[1])は、日本の歌手[2]。愛称は、MICO(ミコ)[2]、(パンチの)ミコちゃん[3][4]。
歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された[5]。後のミュージシャン(都はるみ、南沙織、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた[6]。
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経歴
要約
視点
世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り[7]、幼稚園の頃FENのラジオに魅せられて歌手になることを決意。母の協力のもと、7歳の頃から自らの意思でティーブ・釜萢の「日本ジャズ学校」に週1回バスで通い、英語の発音の基礎からスパルタ教育を受け、8歳から進駐軍のキャンプで歌っていたともいい[4]、駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた[7]。曲を提供されて自分の世界にもっていくために、家での練習(本人曰く「小稽古」)の際、歌詞を理解してメロディーを体に入れてから(本人曰く「儀式」)、自ら考案した記号を譜面に記載したうえで、自ら歌唱したテープを確認し歌をものにしたうえで収録に臨んだという。この儀式は、レコードデビューからラストシングル収録まで続けられたという。ジャズで鍛えたスキャットを得意とし、決まったコードの中で様々な絵が描けるので、あらかじめ決めないでスリルを感じながらその場でスキャットを奏でて楽しんでいたという。
晩年まで、空き時間に最新曲をiPodで聴き漁るなどして、採り入れ、学ぶ姿勢を失わなかったという。自らの歌唱待ちの舞台袖で椅子をすすめられても勉強になるといって立ったまま他の歌手の唄に耳を傾ける姿や、自ら先輩に良くしてもらったことを理由にスタッフをはじめ後輩らにも謙虚な姿勢で接する姿は、多くの同業者・スタッフに好意的に受け止められていた。
ダイナマイト娘
1961年に東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー[2][8](草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。翌1962年には各社競作で出された「ヴァケーション」(コニー・フランシスのカバー[9])が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山版は3万枚の小ヒットだった。同年NHK紅白歌合戦に初出場。1973年の森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていたエラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に「養女にしたい」とまで言われている[10]。
1964年10月に日本コロムビアへ移籍[2]。新幹線で移動中、グレンミラー楽団を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。その結果、1965年7月に、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した[2][11]。3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌い、トリを務めた[11]。その足でニューヨークに渡り、譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等のオリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム「ニューヨークのミコ」を制作した。
2か月ほど渡米・渡欧。その成果として1968年5月30日にはリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作し[12][13]、日本におけるリズム・アンド・ブルースの先駆けとなった。
カムバック
弘田は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年10月20日、「人形の家」でオリコンチャート首位となり[4]、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した[14]。他方、1966年に雑誌スイングジャーナルの人気投票「ジャズ・ヴォーカル女性歌手」部門でトップに立ち(1970年まで5年連続。それまでのトップはマーサ三宅。)、小規模なジャズライブを中心に活動していた弘田が、カムバックという形で再度表立った活動を始めたことに対して、コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという。
海外での活動としては、1973年、第11回チリ・ポピュラー音楽フェスティバルで5位に輝き、同年に第13回ブルガリア音楽祭(en:Golden Orpheus)にゲストとして招待され、50分ほどのワンマン・ショーを披露した。
ダイエット本出版
カムバックに際し、弘田はダイエットによる大幅な減量をしていたが[3]、この経験も踏まえ1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版した[15]。この本はベストセラーとなり「芸能人のダイエット本の先駆け」[16]、「タレントダイエット本の元祖」と評され、150万部を超えたともいわれる[17]。同年のベストドレッサー賞を受賞した。この後、イヴ・サンローランとタイアップしていき、ファッションリーダーとしても活躍していくこととなった。
後の2019年11月28日にNHKで放送された「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」の「ストレスの原因?単位のお名前」の回において、「カロリー」という言葉を日本に普及させた人物として紹介された[18]。
渡米
その後、渡米し1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』[19]を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した[20][21]。
1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する[22][23]。
平成以降
2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売[24]。「Everything」「接吻」「SWEET MEMORIES」「いとしのエリー」 「駅」など、はじめて日本の楽曲をカバーした。ジャマイカでツインズ=スライ&ロビーと初めてのレゲエを吹き込む。
2015年10月21日、レコードデビュー55周年記念として32年ぶりの新曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。ボーナス・トラックに「人形の家」のピアノバージョンを収録した。
2020年7月20日、千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されるも、翌21日午後10時31分、心不全のため73歳で死去[25]。葬儀は親族のみで密葬として行い、6日後の27日に訃報が発表された[1]。同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたという[26]。同年6月15日に公開されたYouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が公の場での最後の肉声となった[27]。最後のテレビ出演は、2019年11月12日に開催された第46回日本歌手協会歌謡祭夜の部で歌われた「夢みるシャンソン人形」で[28]、翌2020年1月2日に「日本歌手協会新春12時間歌謡祭【第4部】」内で放送された[29]。また、最後のライブは2019年12月8日に名古屋市の星神社で催された御本殿竣功奉告祭になった。
2020年11月20日、第62回日本レコード大賞特別功労賞受賞[30]。
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評価
小説家の小林信彦は、弘田に対し「大天才」、「戦後の17年は無駄ではなかった」と賛辞を贈った[31]。
1991年発行の評論本『日本のポピュラー史を語る』(村田久夫・小島智著)によれば、「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出した」と評価されている[32]。
ポップスやジャズなどジャンルの垣根を超えた歌声を評価された反面[33]、歌唱スタイルの変化に対して好意的ではない見解を示す向きもあった[34]。
1970年代後半以降はヒット曲が出なかったことなどから、活動後期は小規模のライブがメインでメディア露出が減っていた。そのため、訃報時にテレビ局の若手制作者がその存在をよく知らず、話題として取り上げない判断をしたワイドショーもあった[35]。取り上げたスポーツ紙等も、スキャンダルを前面に押し出す内容がほとんどを占めた。追悼メッセージを寄せた人物もほぼ60歳代以上に限られた。
- 山下達郎は、「戦後最高の力量をもつシンガーのひとりの方でございますのに、こんなご時世もあってでしょうかね、メディアにはほとんどのぼりません。ホントに残念なことであります」と追悼するメディアが少ないことを残念がり、『悲しきハート』については、オリジナル歌手のスーザン・シンガーよりも「はるかにすぐれたバージョン。16歳とは思えない素晴らしい歌唱力」と絶賛している[36]。
- 桑田佳祐「存在自体がポップ。ビート感満載のポップスで笑顔・ダンスをテレビ画面いっぱいに表現していた。チャーミングでみんなの憧れでとにかくナンバーワンだった。(一連のカバー曲は)明るい未来へ向かうアンセムのようだった」[37]
- 中尾ミエ「同時期にデビューした戦友。すごいパワーで、この人にはかなわないと思った。『人形の家』からはパンチがなくなった」[34]
- 菊地史彦「もし弘田三枝子がいなければ、戦後ポップスはひどくつまらなかっただろう」[38]
このような弘田に対する訃報時のマスメディアの対応に対し、何のリスペクトもない、と業を煮やした都築響一は、自身の番組「SUPERDOMMUNE 『都築響一のスナック芸術丸』」にて、2020年8月13日に7時間にもわたる追悼特番を組んだ[39]。
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ディスコグラフィ
要約
視点
シングル
- レーベル
- 1 - 20、61:東芝レコード、東芝EMI(1961年 - 1964年、1980年)
- 21 - 60、65、66:日本コロムビア(1964年 - 1977年、2006年、2015年)[注釈 1]
- 62 - 64:キングレコード(1983年 - 1984年)[注釈 2]
- 「高木エリカ」「MICO」は弘田のペンネーム。
コラボレーション
アルバム
※ 記載なしはステレオ録音。
オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
ベストアルバム
サントラ
テレビ
CM
映画
ナレーション
- X+Y presents Midnight Ebisu [Analog] (2005年11月3日/THLP364)「春風のうわさ」「渚のうわさ」収録。都築響一プロデュースのナレーションレコード。
タイアップ曲
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出演
要約
視点
テレビ番組
音楽・バラエティ番組
テレビドラマ
みんなのうた
▲はラジオのみの再放送、△はNHK衛星第2テレビ(現:BSプレミアム)の『なつかしのみんなのうた』での再放送。
NHK紅白歌合戦出場歴
映画
- 魚河岸の旋風娘(1963年3月3日)若林三重子役 : 松竹入社第一回作品。主題歌「明日をみつめて」「そっと一人に」と、「おてもやん」「ソーラン節」を歌唱。
- 独立美人隊(1963年4月28日)西本道子役 : 「ブルージン・ブルース」を歌唱。
- 女弥次㐂多 タッチ旅行(1963年7月13日)堀江和子役 :岩本多代・渥美清共演。「タッチ旅行の歌」「ギャンブル節」を歌唱。この作品を最後に再び歌手活動へ復帰。
- 栄光の黒豹(1969年12月17日)歌手役 : 「人形の家」を歌唱。
- 華やかな女豹(1969年12月31日)森下まゆみ役 : 「鏡の中の天使」を歌唱。
- 開運旅行(1971年3月3日)歌手役 : 「できごと」を歌唱。
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著書
- ミコのカロリーBook、集団形星、1970年
- マインド・ビューティ痩身法 : より美しくへの挑戦、講談社、1986年
弘田三枝子を題材とした楽曲
演じた人物
受賞
- 1969年、第11回日本レコード大賞・歌唱賞(「人形の家」)
- 1970年、第1回東京国際歌謡音楽祭・歌唱賞(「できごと」)[47]
- 1973年、第11回チリ・ポピュラー音楽フェスティバル 5位
- 2020年、第62回日本レコード大賞・特別功労賞
脚注
関連項目
外部リンク
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