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皆川定之
日本のプロ野球選手、監督 (1919-1986) ウィキペディアから
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皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日)は、群馬県出身の元プロ野球選手、コーチ、監督。
プロ野球選手の皆川康夫は子。
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来歴・人物
旧制桐生中学(現:群馬県立桐生高等学校)時代には、第13回選抜中等学校野球大会、第20回全国中等学校優勝野球大会、第21回全国中等学校優勝野球大会、第22回全国中等学校優勝野球大会の4回の甲子園に出場した。チームメイトに大阪タイガースでも同僚になる青木正一(投手)、後に近鉄のスカウトになる塚越源市(捕手)がいた。
1937年に大阪タイガースに入団した。入団の経緯は、チームメイトでエースの青木を獲得に行ったタイガースの早川渉外に、桐生中監督の稲川東一郎が「青木よりいい」と紹介したことから始まる。戦前とはいえ、身長156cmの皆川は特に小柄で、同年春シーズンに公式戦初出場した際、球審を務めていた二出川延明は皆川をバットボーイと勘違いし「坊や、向こうへいけ」と言ったという話が伝わっている[1]。
1938年秋季シーズンから出場数が増え始める。11月16日の対イーグルス戦では、2回表、8番に入った青木正一の打席で、9番の皆川が打順を間違えて打席に入り、皆川はライトフライに倒れる。すぐに打順間違いをイーグルスに指摘され、記録上は皆川の打席は青木が打った事になった。続く打席で皆川が再び入り、四球を選んでいる。これは日本プロ野球史上初となる、打順間違いの事例となった[2]。
1939年には88試合、1940年には101試合に出場した。
39年~41年にかけては東西対抗にも出場。1941年オフに戦争の影響で退団。退団後は全桐生に所属し都市対抗野球にも出場していた。
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選手としての特徴
皆川の選手としての特徴はその守備にあった[1]。タイガースで同僚だった松木謙治郎は、後に皆川について「守備だけなら吉田以上」と書いている[1]。
その一方で、打撃は打率が2割5分を超えたことがない、そもそも2割を切るシーズンもある上、シーズン最多三振を記録する(1951年)など難があった。しかし、その一方で選球眼に優れており、四球を数多く選んでいる。1949年シーズンは、リーグ最多の80四球を選んでおり、打率.178ながら、出塁率.295を記録している。出塁率3割を超えているシーズンも多い。また、犠打も多用しており、シーズン最多犠打を3シーズン記録している(1941年、1948年、1951年)。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に球団名を変更
- 急映(急映フライヤーズ)は、1949年東急(東急フライヤーズ)に球団名を変更
背番号
- 29 (1937年 - 1941年)
- 6 (1948年 - 1952年)
脚注
関連項目
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