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皆川康夫
日本のプロ野球選手 (1947-2022) ウィキペディアから
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皆川 康夫(みながわ やすお、1947年11月3日 - 2022年12月19日)は、静岡県浜松市出身のプロ野球選手(投手)。
父は元プロ野球選手の皆川定之。
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経歴
浜松日体高卒業後は1966年に中央大学へ進学したが、1勝も出来ず、1年下のエース・杉田久雄の影に隠れていた。大学同期に萩原康弘、長井繁夫、末永正昭がいる。
大学卒業後の1970年に富士重工業へ入社し、素質が開花。同年は産別対抗で活躍すると、都市対抗には日立製作所の補強選手として出場し、東海理化との1回戦でリリーフ登板。中央球界では全くの無名であったが、ドラフト5位で東映フライヤーズへ入団し[注 1]、富士重工出身初のプロ野球選手となる。
1971年には、4月11日、開幕3戦目の西鉄戦(平和台)で初登板初勝利を飾る。得意のシュートで内角を突く強気のピッチングで、同月下旬から先発陣に入り、オールスターまでに10勝をマーク。オールスターにも出場したが[1]、後半戦は登板過多から坐骨神経痛となり、1勝に止まる。シーズンでは11勝14敗、防御率3.44の成績でパ・リーグの新人王を獲得[2]。その後は肩痛に苦しむ。
1973年には一軍出場ゼロに終わったが、チェンジアップ気味のカーブが鋭い本格派から技巧派転身でリリーフ専門として復活。
1974年には後半戦だけで4勝を挙げた。
1975年には抑えに回って8勝10セーブを挙げる。当時「ビーバー(ちゃん)」という愛称があった[3]。
1977年に鵜飼克雄、新美敏、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。
1979年限りで現役を引退。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
表彰
- 新人王 (1971年)
記録
- 初記録
- 初登板:1971年4月11日、対西鉄ライオンズ2回戦(平和台野球場) 9回裏に救援登板
- 初勝利:1971年4月11日、対西鉄ライオンズ3回戦(平和台野球場) 5回裏に救援登板、被安打7、奪三振4、自責点2
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1971年)
背番号
- 27 (1971年 - 1976年)
- 17 (1977年 - 1979年)
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脚注
関連項目
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