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福塚勝哉

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福塚 勝哉(ふくづか かつや 、1939年1月5日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手捕手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

県立和歌山商卒業後、1957年毎日オリオンズへ入団。同年10月24日東映戦(駒沢)で沼澤康一郎に替わって初出場を果たし、いきなり2打数2安打でチームの勝利に貢献する活躍を見せたが、守備ではリーグのゲーム最多捕逸(当時)である3捕逸を記録するなど足を引っ張った。その後は谷本稔醍醐猛夫に次ぐ三番手捕手として起用され、1961年には51試合に出場。1962年飯尾為男と共に、土井豊高井良一男との2対2の交換トレードで阪神タイガースに移籍。移籍1年目はたった2安打しか打たなかったが、2本中1本は9月9日巨人戦(後楽園)で伊藤芳明から放った初本塁打である。東映との同年の日本シリーズでは全7戦中5戦に出場し、10月21日の第7戦(甲子園)ではスタメンマスクを被るなど活躍し、9打数2安打であった。1963年には自己最多の84試合に出場し、相性の良かった村山実とのバッテリーを中心に起用された。この年の阪神は戸梶正夫ジーン・バッキー山本哲也小山正明など相性の良さで捕手を起用し、今でいう「プラトーン・システム」でやりくりした。1964年辻佳紀の台頭もあって41試合出場に終わるが、2年ぶりのリーグ優勝に貢献。南海との日本シリーズでは全7戦中3戦に出場し、10月1日の第1戦(甲子園)では先発起用されるも途中交代したが、同5日の第4戦(大阪)では先発フル出場。いずれも先発の村山とのバッテリーであったが、打撃成績は2年前と違って4打数無安打に終わった。1965年西本幸雄監督の要請もあり、阪急ブレーブスへ移籍。岡村浩二の二番手捕手として活躍し、1966年に現役を引退。

引退後は夫人の実家がある愛媛県松山市で石油関係の事業に携わった。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

 

背番号

  • 57(1957年 - 1959年)
  • 29(1960年)
  • 28(1961年、1964年)
  • 8(1962年 - 1963年)
  • 31(1965年 - 1966年)
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関連項目

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