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谷本稔

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谷本 稔(たにもと みのる、1937年2月1日[1] - 2010年[2])は、愛媛県八幡浜市出身のプロ野球選手捕手)・コーチ監督

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

八幡浜高校1年次の1952年に板前であった父親を亡くし、「母親を楽にするために」と大学進学を諦めてプロを志す。3年次の1954年に行われた夏の甲子園県予選では打率.660と打ちまくったが、準々決勝で宇和島東高に惜敗。1955年、高校の監督が藤本定義監督の兄であった事から大映スターズに入団。1年目の同年は3月27日東映戦(駒澤)に捕手で開幕戦スタメンデビューを果たすが、これは日本プロ野球史上初の「高卒ルーキー捕手の開幕戦スタメンデビュー」であり、2006年炭谷銀仁朗西武)まで51年間なかったという非常に稀な出来事でもあった。この年は74試合に先発マスクを被るが、2年目の1956年保坂幸永らの控えに回る。高橋ユニオンズと合併して「大映ユニオンズ」となった1957年には定位置を奪還し、球団合併によって1958年大毎オリオンズへ移籍。醍醐猛夫とのポジション争いに競り勝って1959年から正捕手として活躍し、規定打席には届かなかったものの、初の2桁となる10本塁打・打率.276を記録。1960年には10年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献し、大洋との日本シリーズでは全4戦に5~6番打者として起用されて15打数3安打に終わる一方、10月12日の第2戦(川崎)でのスクイズプレイ失敗が西本幸雄監督と永田雅一オーナーの対立を招き、西本が解任される事態にまで発展するなど必ずしも順風満帆とは言い難い面もあった。同年と1963年にはオールスター出場を果たし、1961年には2度目の2桁となる10本塁打を記録。1963年には自己最多の137試合に出場して打率.285と活躍するが、1964年には醍醐に正捕手の座を譲る。1965年牧勝彦とのトレードで阪神タイガースへ移籍し、6月17日サンケイ戦(甲子園)で1000試合出場を達成。阪神では辻佳紀の控え捕手に留まり、1967年にはブルペンコーチ兼任となる。1968年引退。

引退後は阪神で二軍バッテリーコーチ(1969年 - 1974年)、一軍バッテリーコーチ(1979年 - 1981年)、二軍監督(1982年)、関西・四国地区担当スカウト(1975年 - 1978年1983年 - 2000年)を歴任し、スカウト時代には嶋田章弘宗彦兄弟や藤川球児などを担当。1985年のドラフト1位の弟・章弘はプロ注目の甲子園のスターであったが、それだけでなく上背がなく注目されていなかった兄・宗彦も同時に獲得したのは谷本の嶋田家に対する配慮と、外観にとらわれずに宗彦の才能を見出した眼力によるものであった[3]1999年のドラフト1位の藤川は必ずしも球は速くなく体の線が細い投手であったが、球持ちがよくて回転のいい球を投げることで推した。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 大毎(毎日大映オリオンズ)は、1964年に東京(東京オリオンズ)に球団名を変更

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1965年6月17日 ※史上96人目
その他の記録

背番号

  • 44(1955年 - 1956年)
  • 32(1957年)
  • 30(1958年)
  • 20(1959年 - 1960年)
  • 27(1961年 - 1964年)
  • 22(1965年 - 1966年)
  • 53(1967年 - 1969年)
  • 66(1970年)
  • 77(1971年 - 1974年)
  • 83(1979年 - 1981年)
  • 70(1982年)
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脚注

関連項目

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