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立洸熊五郎
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立洸 熊五郎(たつひかり くまごろう、1969年10月25日 - 2011年2月24日)は、北海道斜里郡斜里町遠音別出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は石橋 義光(いしばし よしみつ)[1]。最高位は西前頭6枚目。
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来歴
1969年10月25日に東京都墨田区で生まれるが、すぐに北海道斜里郡斜里町遠音別へ移り住み、地元の興部小学校では1年生から2年生まで剣道を習っていた。
小学校3年生でウトロ小学校へ転校後、中学校2年生まで野球を習っていたが、近所の住民が旭川で洋品店を経営していた立浪親方(元関脇・羽黒山)の弟に「素質のいい少年がいる」と紹介し、連絡を受けた立浪から直接勧誘されて立浪部屋へ入門した。
入門当初から大きな体格で期待され、1985年3月場所に於いて初土俵を踏んだ。同部屋の先輩である北尾光司(後の横綱・双羽黒)の付け人を務めながら北尾の胸を借りて頭角を現し、1991年1月場所では21歳の若さで新十両へ昇進した。この場所では力不足から負け越して1場所で幕下陥落となったが、同年5月場所で復帰すると十両に定着、1992年1月場所では新入幕を果たした[1]。
腰の重さを最大限に生かし、相手から強烈に攻め込まれても廻しを掴んでから左四つになってから強引に寄り切る豪快な取り口だったが、大雑把かつ脇が甘いために攻めが遅いことからここ一番の勝負どころに弱く、幕内に定着することはできなかった[1]。
1993年9月場所を最後に十両へ陥落後、椎間板ヘルニアを患ってから精彩を欠く相撲が多くなり、1995年1月場所ではついに幕下へ陥落した。
その後も十両復帰を目指して相撲を取り続けていたが、三段目まで番付を下げるなど以降も振るわず、幕下59枚目に在位した1999年3月場所を最後に現役を引退した[1]が、部屋の師匠交代と重なり、断髪式では、襲名直後の新師匠(元小結・旭豊)が止めばさみを入れている。
晩年は日本相撲協会に残らずに飲食店を経営するが、長持ちせず、帰郷して北海道千歳市で警備会社に勤務していた。2011年2月24日、肝臓癌のため死去。41歳没。[要出典]
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人物
現役時代は厳つい風貌と堂々とした体格で、正にクマの様だった。愛称も「熊」で、熊をあしらった化粧廻しを使用したこともあったほか、自身の四股名である「熊五郎」も自分で命名したという。しかし、同時期に大刀光電右エ門が関取として活躍しており、四股名の読みが似ている2人の取組は実況泣かせだった。
主な成績・記録
- 通算成績:391勝356敗25休 勝率.523
- 幕内成績:45勝75敗 勝率.375
- 現役在位:85場所
- 幕内在位:8場所
- 各段優勝
- 十両優勝:2回(1993年7月場所、1994年7月場所)[1]
- 幕下優勝:2回(1990年11月場所、1991年3月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
改名歴
- 石橋 義光(いしばし よしみつ)1985年5月場所 - 1986年7月場所
- 立洸 義光(たつひかり - )1986年9月場所 - 1989年1月場所
- 立洸 熊五郎( - くまごろう)1989年3月場所 - 1996年3月場所
- 立洸 義満( - よしみつ)1996年5月場所 - 1999年3月場所(引退)
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脚注
関連項目
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