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北勝鬨準人
日本の元大相撲力士 ウィキペディアから
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北勝鬨 準人(きたかちどき はやと、1966年1月1日 - )は、北海道帯広市大空町出身で伊勢ノ海部屋に所属した元大相撲力士。本名は久我 準人(くが はやと)。身長183cm、体重148kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は西前頭3枚目(1994年3月場所)。好物は卵焼き、趣味はサッカー観戦。現在は年寄・伊勢ノ海[1]。
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来歴
生い立ち・現役時代
帯広市立大空中学校ではサッカー部に所属し、ゴールキーパーを務めた。卒業後北海道帯広柏葉高等学校(定時制)に入学するも受験の失敗を理由に我慢できず、1ヶ月で中退し伊勢ノ海部屋に入門した。1981年5月場所に初土俵を踏んだ。同期生には元関脇の若翔洋で現在は格闘家の馬場口洋一(元WAKASHOYO)がいる。幕下時代から有望力士として期待され、1987年1月場所で十両に昇進。昭和40年代生まれ初の関取となる。1989年1月場所で新入幕、平成初の新入幕力士の一人となる。バランスの取れた体格から将来の大器と嘱望されたが、稽古不足もあってか幕内と十両を往復する生活が続いた。1991年9月場所、6度目の入幕でようやく幕内に定着する[1]。
左上手を浅く取っての型は良かったが勝ち味が遅く、素質は充分あったが三役昇進は果たせなかった。結局、幕内での二桁勝利は一度もなく、三賞も受賞できず1998年5月場所を最後に十両に陥落した。十両の土俵でも健闘していたが、幕下に陥落した2000年9月場所前に現役を引退した。年寄・勝ノ浦を師匠から取得して襲名し、伊勢ノ海部屋付きの親方として後進の指導に当たる。なお、北勝鬨の引退により100年以上続いた道産子関取が途絶えた。
四股名に「北勝」とつくことから現在でも八角部屋出身と間違われることが多い。四股名の由来は競走馬の“キタノカチドキ”から来ている。同馬のように強くなりたかったからだという。
伊勢ノ海部屋を継承
2011年9月場所千秋楽の9月25日、師匠の11代伊勢ノ海が65歳で停年(定年)退職を迎えることを受けて同日付で12代伊勢ノ海へ年寄名跡を変更すると共に、同部屋を継承することとなった[1][2]。ちなみに11代とは出身地が同じ北海道十勝(11代は帯広市の隣の音更町出身)というつながりがある。
2020年9月場所、1949年から続く現在の伊勢ノ海部屋では初となる外国人力士が入門。因みに、11代伊勢ノ海の頃は方針上外国人力士を入門させる意向はなかった。1部屋1人の外国出身枠や部屋の伝統を考えると悩ましかったが「入門前に面接をしたら真面目でいい子だった。2人のOBもいるから大丈夫。この子に限って引き受けた」と受け入れを決意したという[3]。
部屋継承以降中々直弟子が育たなかったが、2024年11月場所に若碇が新十両昇進を決め、待望の子飼いの関取となった。その若碇は2025年7月場所で藤ノ川と改名して幕内に昇進した。
日本相撲協会理事として
2022年3月に日本相撲協会の理事に就任、地方場所担当部長(大阪)となる[4]。2023年5月場所後の霧島鐵力(霧馬山鐵雄から改名)の大関昇進伝達式では、協会理事として使者を務めた[5][6]。
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主な成績
- 通算成績:710勝732敗22休 勝率.492
- 幕内成績:331勝389敗15休 勝率.460
- 現役在位:116場所
- 幕内在位:49場所[1]
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回(1986年11月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴
- 久我 準人(くが はやと)1981年5月場所~1986年11月場所
- 北勝鬨 準人(きたかちどき-)1987年1月場所~2000年9月場所
年寄変遷
- 勝ノ浦 準人(かつのうら はやと)2000年9月~2011年9月
- 伊勢ノ海 準人(いせのうみ-)2011年9月~
- 日本相撲協会公式サイトおよびその前身の「goo大相撲」では襲名から2016年7月場所まで「伊勢ノ海隼人」と誤記されていた。
エピソード
関連項目
脚注
外部リンク
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