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第2次吉田内閣

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第2次吉田内閣
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第2次吉田内閣(だいにじ よしだないかく)は、衆議院議員民主自由党総裁吉田茂が第48代内閣総理大臣に任命され、1948年昭和23年)10月15日から1949年(昭和24年)2月16日まで続いた日本の内閣

概要 天皇, 内閣総理大臣 ...

内閣の顔ぶれ・人事

要約
視点

国務大臣

一人内閣

1948年(昭和23年)10月15日任命[1]。在職日数5日。

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国務大臣任命時

1948年(昭和23年)10月19日任命[2]。在職日数121日(通算125日。第1次、2次通算493日)。

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内閣官房長官・内閣官房次長

1948年(昭和23年)10月17日任命[7]

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政務次官

1948年(昭和23年)10月26日任命[10]

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勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

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首班指名投票

第3国会
1948年(昭和23年)10月14日
吉田茂(民主自由党)-184票片山哲(日本社会党)-87票、三木武夫国民協同党)-28票、黒田寿男労働者農民党)-9票、徳田球一日本共産党)-4票、齋藤晃(第一議員倶楽部)-1票、白票-86票、無効-1票[注釈 6]
<決選投票>
吉田茂(民主自由党)-185票、片山哲(日本社会党)-1票、白票-213票[注釈 7]
吉田茂(民主自由党)-144票、片山哲(日本社会党)-29票、黒田寿男(労働者農民党)-15票、松平恒雄(緑風会)-9票、三木武夫(国民協同党)-6票、徳田球一(日本共産党)-4票、西園寺公一(無所属)-1票、白票-5票
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内閣の動き

1948年当時、日本政界は単独で過半数の議席を確保する政党のないハング・パーラメントの状態にあり、日本社会党(第一党)、民主党(第三党)、国民協同党(第四党)の三党が連立政権(片山内閣および芦田内閣)を組み、GHQ民政局の後見を得て社会主義的政策を推し進めた。しかし、容共的態度をとる社会党左派と民主党内の幣原喜重郎名誉総裁ら反社会主義勢力が対立した片山内閣は崩壊。芦田内閣として仕切り直しを図ると、元々反共的態度をとっていた民主自由党(第二党)とGHQ参謀第2部は反撃に出て、昭和電工事件で検察に圧力をかけて西尾末広副総理らを逮捕に追い込むと、芦田内閣も総辞職を余儀なくされる。民政局はそれでも民自党の吉田総裁の復権を阻止するべく、国民協同党・三木武夫委員長への禅譲や、民自党の山崎猛幹事長の脱党を画策するも不発に終わり(山崎首班工作事件)、1948年10月14日、戦前の憲政の常道に則り、吉田総裁が首班指名を受けて、第2次吉田内閣が発足する。

民自党は少数与党であったため、吉田首相は早期の衆議院解散総選挙を望むが、日本国憲法では衆議院解散の先例がなかったことから、吉田の政治力拡大を快く思わない民政局と旧連立与党はそれを利用して、解散の引き延ばしを図る。吉田内閣は、憲法7条(天皇の国事行為としての衆議院解散)を早期解散の根拠としたが、社会党の片山哲委員長は、民政局の示唆により、7条は天皇の儀礼的行為を定めたにすぎず、69条(内閣不信任による解散)以外で内閣が任意の時期での解散を決めるのは旧憲法の思想である、との声明を発出する[14]

この対立は、民政局の勢力の後退と、吉田内閣の権力の安定化を望むダグラス・マッカーサーGHQ総司令官が吉田の肩を持ったことにより、形式的に内閣不信任案を可決させたうえで早期に解散総選挙を行うことで合意がなされる。優先して審議されていた国家公務員法改正案と新給与予算案が成立した後、12月23日に不信任案が成立して解散(馴れ合い解散[15]

1949年1月23日、第23回衆議院議員総選挙において民自党は過半数を獲得(定数466、民自党264)。2月16日、第3次吉田内閣が発足、日本は対米協調、独立回復へと進んでゆく。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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