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荒川昇治
日本の野球選手 (1924-1997) ウィキペディアから
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荒川 昇治(あらかわ しょうじ、1924年4月15日 - 1997年1月28日[1])は、滋賀県出身のプロ野球選手。現役時代のポジションは捕手。
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経歴
八幡商業学校からノンプロの昭和製鋼を経て、1947年に太陽ロビンスへ入団する。一年目から二塁手として115試合に出場したが、二年目以降は内野のユーティリティプレイヤーとして使われるうちに、捕手での出場が増える。1948年10月5日の対中日ドラゴンズ戦でサヨナラホームスチールを記録[1]。
1950年は前年度の捕手として最多出場した辻井弘が新球団・広島カープに移籍したことから、荒川は捕手に専念。98勝もの勝ち星を挙げた真田重蔵・江田貢一・大島信雄ら投手陣との呼吸の合ったリードは当時のセ・リーグ随一とも評価される。また、打撃でも水爆打線の下位打線を担い、意外性のある打撃と右打ちなど[2]、攻守両面で松竹ロビンスのリーグ優勝に貢献し、ベストナインを受賞[1]。翌1951年にはオールスターゲームに初出場し[1]、自己最高打率の.276を打ちリーグ23位に付けた。
1951年オフに小西得郎が大洋ホエールズの監督に就任すると、岩本義行らとともに希望して大洋に移籍[3]。1953年に大洋が古巣の松竹と合併すると、松竹から加入した目時春雄とのレギュラー争いに敗れ控えに回る。1955年に毎日オリオンズに移籍し、同年限りで引退した。
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選手としての特徴
捕手としては珍しく、前述のサヨナラホームスチールの他、1950年の水爆打線では25盗塁で貢献し[4]、1952年には32盗塁を記録した。これはNPBにおける捕手としての最多盗塁記録であり、さらに捕手で30盗塁以上を記録しているのは荒川と吉原正喜の二人だけである[5]。それだけの俊足の持ち主であったことから、1・2番打者を務めることもあった。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太陽(太陽ロビンス)は、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更
- 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に球団名を変更
表彰
- ベストナイン:1回 (捕手部門:1950年)
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1951年)
背番号
- 24 (1947年 - 1954年)
- 56 (1955年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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