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辻井弘
日本のプロ野球選手 (1917-1993) ウィキペディアから
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辻井 弘(つじい ひろし、1917年〈大正6年〉4月21日 - 1993年〈平成5年〉3月17日)は、京都府出身のプロ野球選手(内野手、外野手、捕手)。
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経歴
平安中学では捕手として1936年に春夏連続で甲子園に出場。春の選抜は準決勝に進むが、愛知商に敗退。夏の選手権は決勝で岐阜商に大敗・準優勝にとどまる。チームメイトに遊撃手の木村進一がいた。
翌1937年に早稲田大学へ進むと、東京六大学野球リーグではこの年秋季リーグで打率.391の好記録で首位打者を獲得した[1]。1939年春季リーグで優勝したが、翌1940年春は早法帝3校同率で優勝預かりとなった。
戦後、1946年にパシフィックへ入団[1]。開幕から3番打者、一塁手として起用される。翌1947年は右翼手に回り全試合に出場、初めて規定打席に到達する(打率.231・35位)。1948年には一塁手に戻り、青田昇、笠原和夫、川上哲治、小鶴誠、藤村富美男、山本一人ら名選手たちと首位打者争いを演じ、この年リーグ4位の打率.298を記録する[1]。
1950年に新たに誕生した広島カープへ移籍し、広島の初代主将となった[1]。この年は開幕から4番打者に座り、いずれもチーム2位となる打率.294(リーグ17位)、67打点と活躍。翌1951年は阪田清春に代わり捕手に回る。 1952年には国鉄スワローズへ移籍。ここでも右翼手、一塁手としてクリーンナップを任され、翌1953年は主に3番打者として打率.264(20位)を記録。1954年限りで引退した。
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選手としての特徴・人物
草創期の広島カープが財政的に厳しかったことから、宿泊費を削減するために、大阪遠征の際には若い選手を実家に宿泊させたことがあったという[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- パシフィックは、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、球団名を変更
背番号
- 2(1946年 - 1947年)
- 12(1948年 - 1949年)
- 3(1950年 - 1951年)
- 10(1952年 - 1954年)
脚注
参考文献
関連項目
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