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藤本修二
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藤本 修二(ふじもと しゅうじ、1964年7月22日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。
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経歴
今治西高では1981年、2年生の時にエースとして、小学校から同期の武田康とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。準々決勝に進出するが、この大会に優勝した報徳学園高の金村義明投手に抑えられ、1-3で敗退。1年上のチームメートに渡辺弘投手がいた。翌年夏は県予選決勝に進出するが川之江高に敗れ、甲子園出場を逸する。
1982年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから5位指名を受け入団。
1984年から1988年に7勝、8勝、10勝、15勝、10勝を挙げ先発ローテーションの一角を守った。
1987年は15勝を挙げ、両山内と呼ばれた山内孝徳、山内和宏とともに、南海がこの年シーズン終盤まで久々に優勝を争う原動力となった。
1988年シーズン終了後に、球団が大阪市から福岡市へ本拠地を移転[1]してからは、右大腿内転筋の故障などでほとんど働けなかった。南海時代指導を受けた河村英文によると、1990年に監督に就任した田淵幸一に心技両面で翻弄され尽くし、半ばノイローゼのようになった時期があったという[2]。
1990年オフに5対4の大型トレードで阪神タイガースへ移籍した(藤本修二、西川佳明、吉田博之、右田雅彦、近田豊年⇔池田親興、大野久、岩切英司、渡真利克則)。
1992年オフに戦力外となり、西武ライオンズにテスト入団。西武では主に中継ぎとして活躍した。
1995年限りで引退。
引退後は阪神の打撃投手、チーム・スタッフ(一軍用具担当)を務め[3]、2021年現在は選手寮の寮長を務める[4][5]。
南海時代のキャンプ中、宿舎近くの公園にいた猫に餌をあげようとしたところ指を噛まれてしまい、1週間投球練習ができなくなった。このことから「ニャンコ」の愛称がついた[3]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
表彰
- 月間MVP:1回(1987年7月)
記録
背番号
- 50 (1983年 - 1984年)
- 20 (1985年 - 1990年)
- 26 (1991年 - 1992年)
- 13 (1993年)
- 15 (1994年 - 1995年)
- 103 (1996年 - 2001年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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