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吉田博之
野球選手 ウィキペディアから
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吉田 博之(よしだ ひろゆき、1960年10月25日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(捕手)。
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経歴
横浜高校では2年次の1977年、夏の甲子園神奈川大会に3番・遊撃手として出場し、注目を浴びるようになる。この時のエースは後に阪神で活躍する中田良弘であった。3年次の1978年、1年生エース・愛甲猛のストレートを捕球できる選手が吉田しかおらず、夏の大会直前の6月に捕手に転向[2]。甲子園では2回戦の徳島商戦で本塁打を放ち、ベスト16まで勝ち上った。打撃と強肩がプロの目に留まり、同年のドラフト4位で南海ホークスに入団。甘いマスクと強肩で「梨田2世」とも呼ばれ、女性の人気を得た[2]。
1980年11月7日の近鉄戦(大阪)で初めて先発マスクを被り、太田幸司から初安打を放つ。同年からチームに加入した香川伸行と正捕手の座を争い、3年目の1981年7月24日にはジュニアオールスターゲーム(ナゴヤ)に出場。前日の同23日の日本ハム戦(大阪)で高橋一三から適時二塁打で初打点、8月6日の阪急戦(西宮)で小嶋正宣からプロ初本塁打の満塁弾を記録。
1981年は黒田正宏・香川に次ぐ39試合出場、1982年は岩木哲・香川に次ぐ25試合出場であった。
1983年は香川が正捕手となり、岩木が2番手、吉田は前年と同じ3番手の起用であったが、1984年には吉田が正捕手となる。
1985年には自己最多の124試合出場・自身唯一の2桁となる10本塁打をマークし、1987年9月11日のロッテ戦(大阪)で右田一彦から3本塁打を放つ。
1988年は呉春季キャンプ終盤の紅白戦でエース・山内孝徳から満塁本塁打を放つと、西武、阪急とのオープン戦でも2連発。開幕後も調子をキープし、10年目で自身最初で最後のオールスターゲームに出場。チームの選手会長も務めるなど活躍したが[2]、チームがダイエーに身売りし、本拠地が大阪から福岡に移転。阪急から移籍した内田強が正捕手となり、2番手にも広島から移籍した山中潔が座ったため、吉田の出番が激減する。
1990年には監督に就任した田淵幸一とリードを巡って対立し、確執もあって、同年オフに阪神との間で行なわれた5対4の大型交換トレード(ダイエー:吉田本人と藤本修二・西川佳明・近田豊年・右田雅彦⇔阪神:池田親興・岩切英司・渡真利克則・大野久)で移籍。
1991年6月11日のヤクルト戦(神宮)で川崎憲次郎から移籍後初本塁打を放つが、この一発が現役最後となった。新天地で出場機会を求めたものの木戸克彦や山田勝彦らに阻まれ、同年10月13日の広島戦ダブルヘッダー第2試合(広島市民)の8番・捕手が最後のスタメンマスクで、佐々岡真司から最後の安打を放ったが、広島の優勝決定試合となった。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
年度別守備成績
記録
- 初記録
- 初出場:1979年8月14日、対ロッテオリオンズ後期4回戦(大阪スタヂアム)、7回表に伊藤勲に代わり捕手として出場
- 初先発出場:1980年11月7日、対近鉄バファローズ前期13回戦(大阪スタヂアム)、9番・捕手として先発出場
- 初安打:同上、6回裏に太田幸司から
- 初打点:1981年7月23日、対日本ハムファイターズ後期6回戦(大阪スタヂアム)、9回裏に高橋一三から適時二塁打
- 初本塁打:1981年8月6日、対阪急ブレーブス後期5回戦(阪急西宮球場)、5回表に小嶋正宣から満塁本塁打
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1988年)
背番号
- 35(1979年 - 1990年)
- 29(1991年 - 1993年)
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関連情報
歌
脚注
関連項目
外部リンク
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