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赤嶺賢勇

日本の野球選手(投手) ウィキペディアから

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赤嶺 賢勇(あかみね けんゆう、1958年5月20日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

沖縄・豊見城高時代には、栽弘義監督の指導を受けて1975年の選抜大会に出場し、初戦でその夏に甲子園優勝をとげた習志野高校を完封、準々決勝では、結果的に準優勝だった東海大相模高校に対して9回裏2死無走者(2死目は原辰徳から見逃し三振を奪った)までリードを保ち、そのあと津末英明からの被安打をきっかけに敗北したが、この大会の活躍で全国的に注目を浴びる投手となった[1]。高校3年次には、春夏連続甲子園出場を達成し、は初戦敗退したが、は準々決勝で1学年下の小松辰雄星稜高)と投げあい、1点差で敗退した[1]。高校時代はナックルの賢と言われていた。

早稲田大学への進学希望を表明した時期もあったが、1976年のドラフト2位で巨人入団。右の本格派として期待され、1979年オフの長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。しかし右肩の故障もあり、思うような活躍はできず1983年限りで現役引退[1]。引退後は東京佐川急便に入社し、1990年から妻の出身地である山形県の佐川急便山形に勤務[1]。長男も日大山形高の外野手として甲子園に出場した。

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詳細情報

年度別投手成績

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記録

背番号

  • 40 (1977年 - 1983年)

脚注

関連項目

外部リンク

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