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近衛兼経
日本の公卿 ウィキペディアから
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近衛 兼経(このえ かねつね) は、鎌倉時代前期の公卿。関白太政大臣・近衛家実の三男。官位は従一位・摂政、関白、太政大臣。藤氏長者。近衛家4代当主。通称は岡屋関白(おかのや かんぱく)。母は表向きには権中納言源雅頼(村上源氏)の女ということになっているが、実は兵部大輔藤原季定の娘。
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経歴
貞応元年(1222年)に元服、正五位下侍従に任じられて昇殿禁色を許される。2年後に異母兄の左大臣・家通が急死したために後継者に立てられ、従三位権中納言となる。安貞元年(1227年)に内大臣、寛喜3年(1231年)に右大臣、嘉禎元年(1235年)に左大臣となる。嘉禎3年(1237年)、九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。暦仁元年(1238年)に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。仁治元年(1240年)、四条天皇元服・加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。
仁治3年(1242年)、四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った(仁治三年の政変)。後に義父と共に関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えで関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で宝治元年(1247年)に後深草天皇の摂政に再任される。建長4年(1252年)、異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元年(1257年)に出家して法名を真理(しんり)と号して余生を宇治岡屋荘で過ごした。
日記に『岡屋関白記』がある。
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官歴
注釈のないものは『公卿補任』による
- 貞応元年(1222年) 12月20日:正五位下。12月21日:侍従
- 貞応2年(1223年) 4月10日:右近衛少将。10月28日:右近衛中将。12月17日:従四位下
- 貞応3年(1224年) 正月23日:播磨権守。4月7日:従四位上
- 元仁元年(1224年) 12月17日:従三位。12月25日:権中納言
- 嘉禄元年(1225年) 7月6日:権大納言。9月7日:正三位
- 嘉禄2年(1226年) 正月23日:従二位。7月29日:兼中宮大夫。8月23日:正二位
- 嘉禄3年(1227年) 4月9日:内大臣
- 寛喜3年(1231年) 4月26日:転右大臣。4月29日:兼左近衛大将
- 嘉禎元年(1235年) 10月2日:転左大臣
- 嘉禎2年(1236年) 2月30日:従一位
- 嘉禎3年(1237年) 3月10日:摂政、藤氏長者
- 仁治元年(1240年) 12月14日:太政大臣
- 仁治3年(1242年) 正月20日:関白
- 寛元5年(1247年) 正月19日:関白
- 康元2年(1257年) 3月8日:出家(法名真理)[2]
- 正元元年(1259年) 5月4日:薨去(享年50)[2]
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系譜

脚注
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