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近衛経忠

鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。従一位・関白、左大臣。近衛家8代。藤氏長者。子に実玄(1339-1387.2.17、一乗院門跡、興福寺、権少僧都) ウィキペディアから

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近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿関白近衛家平の子。官位従一位・関白、左大臣近衛家8代当主。号に後猪熊関白、堀河関白など。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。

概要 凡例近衛経忠, 時代 ...

経歴

正和3年(1314年)11月に従三位元亨4年(1324年)4月に23歳で右大臣に昇り、元徳2年(1330年)1月には左大臣・鷹司冬教を超えて関白と藤氏長者とを兼ねた。この異例の抜擢は経忠が後醍醐天皇から信任を受けていたことによるが、僅か7ヶ月で辞任に追い込まれ、代わりに内覧宣旨を受けた。その背景には、抗議の意味で自邸に籠った冬教に対する配慮に加えて、後醍醐天皇は関白とは別に2名の内覧を設置してこれを補佐させる意図があり、九条房実鷹司冬平の死去によって内覧が前関白二条道平のみとなったために、経忠・冬教を相次いで関白に任じることで、関白を含めた内覧3人制の維持を図ったとされている[1]

もともと経忠の祖父・家基には二人の子がおり、一人は鷹司家出身の妾が生んだ長男の家平(経忠の父)で、もう一人は亀山天皇皇女が生んだ次男経平であった。家基の没後、二人はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代に受け継がれ、経忠は経平の子・基嗣と激しく争っていた[2]。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手のはずであった。だが、経忠は建武政権下において再び天皇から重用され、建武元年(1334年)2月右大臣・藤氏長者に復し、同2年(1335年)11月左大臣へと昇進する。延元元年(1336年)8月足利尊氏の入京に伴って持明院統光明天皇が擁立された際には、再び関白宣下を受けた。しかし、後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞するも、当然認められなかった。

ついに延元2年(1337年)4月、京都を出奔して南朝へ赴いた。これに激怒した北朝側は経忠の関白職を解いて基嗣をその後任とし、子の経家冬実は昇進停止となった。南朝では左大臣の任にあったものの[3]、志を得なかったのか、興国2年(1341年)京都に戻っている。しかし、ここにおいても冷遇されたらしく、亡屋1宇・所領2ヶ所を受領した他は正体なき有様であったため、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏小田氏に呼びかけて藤氏一揆(藤原氏同盟)を企て、自ら天下の権を執らんとしたという。この一件については、経忠が北朝との和睦工作を進めるに当たって、障害となる主戦派の北畠親房を排除する動きとの見方がある。

一揆の計画が頓挫した後も京都に留まったと思われ、正平一統の折には家門を安堵されて、近衛第に入っている。しかし、間もなく一統が破綻すると追放され、南朝の行宮がある賀名生奈良県五條市)に赴いたのであろう。正平7年(1352年8月12日に出家、翌日水腫のために薨去。享年51。

勅撰和歌集には計3首が入集しているが、その内訳は、『続後拾遺和歌集』・『新拾遺和歌集』・『新続古今和歌集』に各1首である。

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略譜

※日付=旧暦

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系譜

脚注

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